貫之の心・私の元永本古今和歌集

一味違った古今集の解読を試みたものです。
抒情詩として読まれてきましたが、「掛詞」をキーワードに解読してみると、政治的敗者の叙事詩が現れてきました。その一部、かな序だけでも鑑賞していただけたらと思います。

私の元永本「古今和歌集」かな序

                              
凡例
*「・・・」 藤原定家の加筆した伊達本の表記。
・・・ 漢字ならひらかなへ、ひらかななら漢字へ、伊達本で変更表記されている、校訂された文字は、その横に(*・・・)と表記、その言葉がなく略されている場合は、 [・・・] とした。
また、伊達本にある作者名の横の説明は省いた。
☆以下は、私の解説文。
比較したのは、「元永本古今和歌集」(二玄社)、「伊達本 古今集和歌集 藤原定家筆」(笠間文庫影印シリーズ)。
かな序のページ数は、「元永本古今集」(二玄社)のもの。
「古注」とあるのは、久曽神昇「古今和歌集」(講談社学術文庫)に引いてあるもの。



元永本 古今和歌集巻第一(かな序)
 (11ページ・本質論ー人も自然も歌をうたう)                                
やまとうたは ひとのこゝろを                            
たねとして よろつのことのはと 
そなれりける よのなかにあ

☆「やまとうたは、ひとの心を種にして、いろいろの言葉になった。」
ひと ことわさ しけきものな
れは こゝろにおもふことを 
もの きくものにつけて いひい
たせるなり はなになくうく

☆「世の中の人、いろいろなことをするので、心に思うこと
を、見るにつけ、聞くにつけ、言葉を、口にするのである。」
ひす みつにすむかはつのこゑ
をきけは いきとしいけるも
の いつれか[は]を よまさりける

☆「梅に鳴くうぐいす、水辺にすむ蛙の声を聴けば、生き物みな歌をうたうのである。」
確かに、文字のない言語はあるが、歌のない言語はないという。


 (12・効果論―言葉は、力をもつという言霊信仰)
ちからをも いれすして あめつ                          
ちを[も]うこかし めにえぬお
かみをも あはれとおもはせ
(*お)とこ(*お)むなのなかをも
やはらけ たけきものゝふの心
をも なくさむるは なり[けり]

☆「力を入れないのに、天地をも動かし、目には見えない鬼神をも感動させ、男女の仲をも親密にし、荒々しい武士の心をも、和ませるものは、歌であった。」
なくさむる=なぐさむ(下二連体形)・ねぎらう。
 (13・起源論―歌は、口ずさみやすく、掛詞だらけ)
この あめつち(*の)ひらけ                         
はしまりけるときより あま
のうきはしのしたにて めかみ
をとこかみと なりたまへること                             
をいへるなり しか(*あ)れとも 

☆「やまと歌は、天地開闢以来、天の浮橋のもとで、女神男神(いざなぎの命といざなみの命)が、夫婦になったことをよんだ歌である。」
つたはることは ひさかたの あめ
にしては したてるひめに はし
まり したてるひめ(*と)は あめわか
みこのめなり せうとのかみ

☆「しかし、現在伝わっている歌は、天上界では、したてるひめにはじまる。したてるひめとは、出雲大国主の命の娘で、高天原から遣わされた天若彦の妻である。兄の神(味すき高彦根の神)の姿が、丘、谷に映り輝く様子を詠んだえびす歌にはじまるのである。」
かたち をか たに(に)うつりて かゝやくを      
☆脱字「に」、「う」の一画が「ゝ」との掛字。 
よめるえひす[の]歌なるへし これ
らは もしのかすも さたまら
す歌のやうにも あらぬことゝ

☆「これらの歌は、文字の数も決まっておらず、(今の)歌とは異なっていた。」
なり あらかねのつちにし
ては すさのをの みことより

  ☆「地上界では、すさのをの命より、(歌は)はじまった。」
そ おこりける ちはやふる(*神代には)
☆「ちはやふる」を「荒々しい」という形容詞に用いているが、定家は枕詞として捉えている。
(*の)もしも さたまらす ゝなを
                                                                               (16)
にして ことこゝろわきかたかり                              
けらし ひとのとなりて

☆「荒々しい歌においては、文字も(万葉仮名の多様性)定まらず、直情にして、歌の情趣を理解しがたかったに違いない。」
ことのこころ=言の心(言葉の意味)
わきかたかりけらし=別き(理解する)・かたかり(難し・形ク連用形)・けらし(過去推量の助動…たに違いない)。
貫之としては、漢詩や万葉仮名で詠われた歌と比べ、仮名文字は、常に付きまとっていた表意から解放され、やまと言葉を表現できる喜びを念頭においたであろう。
[よりそ] すさのをの みよ 
となりてそ(*みことよりそ) みそもしあま
り ひともし[に]はよみける

☆「地上界になってからというより、すさのをの命の時代となってから、三十一文字に詠むようになった。」
「ひとのよとなりてよりそ」と「すさのをのみよとなりてそ」と「そ」が、並列されて説明されているのを、定家は、ひとつに校訂して「ひとのよ」が「すさのをのみよ」であることを説明している。
すさのをの みことは あまてる
おほむ神のこの かみなり 女
とすみたまはむとて いつもの
くにゝ みやつくりしたまふ
に そのところに やいろのく
ものたつをみて よみたまへ
なり

☆「すさのをの命は、天照大神の兄である。妻とお住みになろうと、出雲の国に宮殿をおつくりになる時、その地に、多くの雲の立つ(多くの先住民の攻撃の矢が激しく射られる)のをみて、歌をお詠みになった。」
このかみ=「子の上」の意、兄又は姉。
やいろ=八色(たくさんの色)、矢色(飛んでいく矢の勢い)。
須佐之男命は、天照大御神の弟とされる。
古事記にある歌で、すさのをが、おろち退治の後、須賀の地に宮をつくった時に詠んだもの。
やくもたつ いつもやへかき 
つまこめに やへかきつくる そ                               
のやへかきを

☆「雲がわき出て幾重もの垣をめぐらしたようであるが、妻を住まわせるために幾重にも、垣根をつくるよ。」
これが、一般的な解釈であろう。
やへ=八重、屋部(家屋と部屋、つまり住居)。
かき=構き(構く=組み立てる)、欠き、垣。
「雲が幾重にも沸き立つ出雲に、住居がなく、妻を囲み住むために、住居を組立て作るよ、その住居の周りには、幾重もの垣根を(も作るよ)。」
古事記、万葉の時代から、掛詞は使われていたことを教えてくれる歌であろう。歌は、口で詠われるものであり、記述して漢字を使えば、その表意を取らざるを得ないのだが、万葉仮名を使い始めて、音だけを捉えるようになって、やまと言葉の掛詞を容易に表記しやすくなったのではないだろうか。
この歌が、人の世となっての初めての、三十一文字の歌であるというのである。「やへかき」を三回使いながら、それぞれ違う意味で使われていることをこれまで、誰も教えてはくれなかった。この時代から、既に掛詞を当たり前のように使っていたと貫之は、みていたのである。
勿論、万葉集では、万葉仮名といえど同じ漢字が用いられているから、掛詞とするには、その表記からは、理解しにくく、当時の口承の習慣の上に立ってでないとその本意は、取りにくかったと思われる。女文字は、その意味で、漢字の意味を取り去り、音表記の道具となり、掛詞表記の可能性を一気に広げることになったのである。
そこから、垣間見ることのできる歴史も推測される。「国譲り」の神話の実態を貫之の時代の人々は、知っていたのであろう。幾重にも塀を作らねば、「大国主命」ら先住民の矢が飛んできたのである。


女文字は、空海(七七四~八三五年没)の生きた時代には、まだ生まれておらず、初めての歌会が行われたのは、八八〇年代光孝天皇期、在原行平による「在民部卿家歌合」である。この時に、使われたのが、女文字であったのだと推測する。左右に分かれて、優劣を競う歌合の形式は、相撲節会(光孝天皇は相撲司別当を親王のころ務めており、即位後も相撲を好んだ)に真似て行われているが、複数の人々の間で、競うためには、歌が書かれて比較されなければならず、女文字は、私的遊興の場には、適していたのだろう。
つまり、この間、五十年足らずの間に、平かなは、生み出されているのである。
                                                                               (18)
かくてそ はなをめて とりを
うらやみ かすみをあは
れみ つゆをかなしふこゝろ (*こと)
はおほく さまゝゝになりにけ

☆「こうして、花を愛で、鳥を羨み、霞を趣深く楽しみ、露をはかなく思う情趣は、その多くが、さまざまに形を変えた。」
る とほ(*を)きところも いてたつあし
[の]もとより はしまりて とし

☆「あしのもと」というより、「足元」という方が慣れていたのだろう。読み下し言葉が、やまと言葉に作り直されている。この前後の言葉使いは、漢文調である。
つきをわたり たかき山も ふも
との ちり(*ひ)ちより なりて
あまくも たなひくまて お(*ひ)
のほれることくに このうたも
かくのことく なるへし なには

☆「(千里の)遠くも、出発するその足の一歩よりはじまり、年月を経て、高い山もふもとの微塵が積ったものであり、空の雲が横になびき高く登るように、それらのように歌も広まることであろう。」 
ゐち=ひち(ひ甲類)、=泥。
おゐ=生い。
                                                                               (20)
つのは みかとのおほむはし                               
☆「難波津の歌は、帝(仁徳天皇)が、(帝になられた)いきさつを詠った歌である。」
おほむ=大御。
はしめ=初め、いきさつ。
めなり おほさゝきのみかとの
なにはつにて みこときこえ
けるとき とう宮をたかひに
ゆつりて くらゐにつきたまは
て みとせになりにけれは 王
任といふ人の いふかりおもひ
て よみてたてまつりける
 
☆「仁徳天皇が難波津で、皇子と言われたころ、皇太子を弟と互いに、譲りあって天皇の位に就かないで三年になったので、王任という人が不審に思い心配して、奉った歌である。」
この難波津の歌の作者は、王仁である。応神天皇没後、有力継承者であった皇子が自殺して、仁徳に譲ったと、日本書紀は伝える。
なり このはなは むめをい
☆「この花は、梅の花を言っているのだろう。」
この先の歌体論①の歌、「難波津にさくやこの花冬こもりいまは春辺とさくやこの花」のこと。あまりによく知られた歌なので、表記せずとも「難波津の歌」で誰にもわかったのであろう。
ふなるへし あさかやまの こと
はゝ うねめのたはふれより
よみて かつらきのおほきみを


(22)
みちのくにゝ(*おくへ) つかはしたりけ                          
☆「みち(未知?)のくに」とは、「陸奥国」であるが、「みちのおく」は、「陸奥」の略する前の形。
るに くにのつかさ ことおろ
そかなりとて まうけなと
したりけれと すさましか
りけれは [さきの]うねめな
りける女の かはらけとりて

☆「安積山の歌は、采女の戯れ歌で、葛城大君が陸奥の国に遣わされたのに、陸奥の国司は、あまりに使いが疎遠であると(不満に思ったが)、食事などの接待はしたが、大君の気分はよくなかった。そこで、その采女である女が、(取りなして)酒杯を取って詠ったということだ。」
采女=後宮の女官で、豪族の娘から容姿の美しいものが選ばれた。
かつらきのおほきみ=葛城の大君・橘諸兄(四又は五代前の祖は、敏達天皇、六八四~七五七年没、聖武天皇期、七二四年陸奥国に多賀城が設置されているので、派遣されたのだろう。)
よめるなり これになむ(*そ) おほき
み(*の)こゝろとけにける

☆「なむ」は、係助詞で「とけにける」と連体形で終わるが、定家の時代には、この言葉が使われなくなったことを示している。「の」をいれて、漢文調からやまと言葉にしている。
(*あさか山かけさへ見ゆる山の井のあさくは人をおもふものかは)
☆万葉集巻第十六(3829)は、下句が「浅き心を我が思はなくに」となっている。
このふた[つ
の] (*の) 歌のちゝはゝのやう
にてそ ならふ人の はし
めにもしける       
                                                                         
☆「この歌に、大君のご機嫌もよくなった。このふたつの歌は、歌の父母とも言えて、書を習うはじめての人は、これから習うものである。」
山の清水は、浅いものだが、安積山の姿が映るほどの水深があるように見えるもの、浅い対応のように見えて、深い思いがあると見て、大君は機嫌を直したというのである。


(23・歌体論―歌は、和らぎである)
☆貫之は、六つの歌の種類を挙げるとみせかけているが、(①は直喩、②は物名、③は隠喩、④は直喩に似た例え、⑤は願望、⑥は希望的観測)掛詞で、「睦」を本意としている。
そも〵 
さま むつなり から(*の) (*に)も かくそ

  ☆「だいたい、歌の型は六つある(歌は、和らぎである)。中国もそのようにあるようだ。」
「詩経」にある六義、①風(姿、表現様式、「心」に対応して用いられる)②賦(事、風景をありのままに詠う)③比(なずらへ歌)④興(趣向、たとへ歌)⑤雅(「俗」に対峙して用いられた、ただごと歌)⑥頌(いはひ歌)を引っかけていっているのである。
つまり、こう六つに解説しても、まともにこのまま、当てはまるわけではなく、彼の真意は、「睦」にある。
むつ=六、睦(和らぎ、仲よし)。
「だいたい、歌は、和らぐものである。中国の歌も当然そうであるはずだ。」
このように、貫之は、裏をかいて、六義などを説明しようとしているのではないのである。
あるへき このむくさの ひとつには
そへ おほさゝきのみかとを
 


(24)
そへたてまつる
なにはつにさくやこの
 こもり いまはゝるへとさ
くやこのはな

☆万葉集には載せられていない古歌であるが、当時の人々にはよく知られた歌であった。
むくさ=六種、無垢(形容動詞ナリ)・さ(接尾語・形容詞、形容動詞に付いて名詞をつくる)。
さく=咲く、波が立つ(波が立つのを咲く花に見立てた語)。
「この六種(純粋さ)のひとつには、①そへ歌。仁徳天皇をなぞらえた歌。難波津に騒ぎとなる波がたつだろうか、表に出ないで籠っているこの方は、用心していたが、今は、即位して、春になったとばかりに、咲く花のようだなあ、という歌であろう。」
応神天皇没後、「皇位を譲り合って」三年間空位になった後に即位し、仁政を敷いたという仁徳天皇を王仁が詠った歌。
彼の住居は、難波高津宮で、即位までの争いがあったことを、におわせる歌である。誰もが口ずさんだ歌であったろうが、その裏には、誰もが知っていた権力闘争の闇が潜んでいるようである。
るなるへし ふたつには かそへ
うた

  ☆中国に倣って、歌を六種に分けているようにみえるが、「睦」の「無垢さ(純粋さ)」を、六つの例に挙げようというわけである。見慣れた「数え歌」というこの項だけ「…うた」と平かな表記している。何か掛詞が仕掛けられていると、考えるべきである。
さくはなに おもひつくみの あち
きなさ にいたつきのいる
もしらすて

☆「二つに、②はがそへ歌、咲く花(女のこと)に、想いを寄せ始める(口にできない)我が身は、まともでないことだ、女の身に病という(射られた)矢のあるのも知らないままで、というのがこの歌である。」
三つ目の勅撰和歌集「拾遺和歌集」(一〇〇五年、古今集、後撰集に入らない歌を集めたもの)巻第七物名(405)参照。
作者は大伴黒主、藤原氏により、紀氏と同様、没落した氏族の一員である。「…そのさま いやし(癒し)」と貫之が、評した歌人であり、一般的な「卑し」とする解釈では、その意味が、はっきり理解できない。
「醍醐天皇が即位し、一年前に亡くなった彼の母、胤子は、その喜びの想いも口にすることなく、切ないことよ、身内に(自分の生んだ子に)跡継ぎがいることも知らないまま、亡くなっているので。」
はか=目当て、はが(=鳥を捕える仕掛け)。
つくみ=ツグミ、付く(想いが生じる)身、つぐみ(口を閉じて何も言わないこと)。
いたつき=矢じりを付けた矢、いた・継ぎ。
あぢきなし=道理に外れている、切ない。
あぢ=鴨の一種。
いる=居る、射る。
しらずて=知らず・て(原因理由を示す接続助詞…ので)。
内容的には、即位前から結婚していた胤子(藤原高藤の娘)に同情している。夫の宇多天皇が、息子の醍醐天皇に譲位した前年に, 彼女は若くして没していたからである。
作者は、その醍醐天皇の大嘗会に歌を奉っているからには、彼の母、胤子にも親しみを覚えたであろう。この歌を、貫之が「癒し」としたことに、同意できるのである。
挙げられている歌は、物名(つくみ、あち、たつ)であり、貫之の説明は、とぼけていて的をえていない。「数え歌」と解されているが、「はか・そへ歌」ではないか。
「はが・添へ歌」とすれば、鳥の名を捕える仕掛けを添えた歌、つまり「鳥の物名」ということの説明になる。
また、六つに挙げた歌名の内、この歌のみ「…うた」と、かな表記されている。明らかに、「かそへ歌」ではないので、他の歌とは、違うことを暗示して、「はがそへ(わなを添えた)歌」としたのではないだろうか。
るなるへし これは たゝ
ことにいひて ものにたとへなとよう
もせぬこと(*もの) なり この いかに
云るにか あら(*む) このこゝろえか 

☆「これは、ありのままに詠んで、物にわざわざたとえることはとてもできない。この歌をどのように評価したよいものか、その心境を言う事は難しい(その心情をくみ取った気持ちは誠実である)。」
たゝ歌=そのままを歌った歌、報酬のない歌。
よう=副詞(下に打消しの語を伴って、不可能の意を表す)とても…できない。
こころえかたし=心・得難し、心得・堅し(誠実だ)。
後にいう様に、「(は)かそへ歌」の例に挙げておいて、「たゝ歌」という判定をして、ムチャクチャな解説である。鳥を物名に散りばめたことを無視すれば、そのままの意に過ぎないと、とぼけているが、裏読みからすれば、黒主の気持ちに同調しており、彼の誠実さを評価している。六人の歌人評で「そのさま 癒し」をここでも、裏付けている。  
                                           
(26)
たし いつゝに たゝ(*こと) と(*いへる)なむ
これには かなふへき

☆「五番目のただの(普通で、報酬のない)歌というのが当てはまるであろう。」
とぼけた説明に終始しており、明らかに貫之は、六義などという分類をしている訳ではない。かな文字を使うことで、新しいやまと言葉の表現形態を紹介しているが、あくまで、挑戦的で、貫之の意図がわからない者がいたとしても、それを肯定するかのように、敢えてはぐらかす説明をしている。そして、歌詠みが昇進につながらないことを嘆くことも忘れていない。
みつには なすらへ
きみに(*けさ)朝のしものおきて
いなは こひしきことに きえ
やわたら(*む)

☆定家は、「我」を主語とみて、「きえやわたらん」を述語とすれば、主語を表記することは不要であり、「けさ」と校訂したのだろう。
「③三つ目は、比べ歌。あなたに思い乱れ、朝の霜が降り消えてしまうことがあれば、(同じように)恋しく思うたびに、死ぬように気が沈んでしまいます。」
「我」と漢字に書いているので、掛詞をわかりにくくしているが、裏読みすると、卑猥な歌になる。
みつ=三つ、(方円に従う)水。
なすらへ=なずらふ(準じる、比べる)の名詞形。
我=割れ(思いみだれて、女陰)の掛詞。
しも=霜、(男の下半身ということで)男根。
こひしき=恋しき、乞ひ敷き(求め押さえつける)。
こと=毎、事。
きえ=消え、帰依(仏の教えに従い頼ること)
「方円に従う水に準じて、(性欲に)従うことが大事だという歌。あなた様には割れ目がある女、朝、私の男根が、立っているようなことがあれば、性欲(あなたの身を求め押さえつけること)に、帰依従い、あなたを奪ってしまおう。」
仏教語である「帰依」をこのような卑猥な比喩に使うことに、ためらいのないところをみると、仏に帰依しているようにはみえず、即物的でドライである。そうした掛詞で、別な意味を持たせることはできるが、それを、貫之はいい比喩としていない。デカダンの戯れ歌であることを認識しているのだろう。帰依という漢語は、平かなで表現されることにより、まったく別のやまと言葉の意味に変身したのである。
といへる なるへし これは ものに
も なすらへて それかやう
に なむあるとやうに いふなり
この歌 よくかなへりとも
えす

☆「という歌であろう。これは、物に類してそのようになぞらえることができるというのである。(霜のように、私は、恋しくてあなた様に、消えてしまいそうだという)この歌が、それに適合しているともみえない。」
なずらへ(比喩)歌の例として、挙げておきながら、それに適合していないという、メチャクチャな説明である。悪い例を先に挙げたということで、裏読みでみえる卑猥な比喩は、なずらへ歌には入らないと言いたいのであろう。が、あっけらかんとして、この手の卑猥な歌が、本文にもでてくるのは、デカダンの貴族の男社会では、性愛の歌は、当たり前なのである。
たらち(*め)の おやのかふ このまゆこ
もりいふせくも あるか 妹にあ
はす[て] か [う]やうなるやこ


(28)
れに(*は) かなふへから(*む)
☆万葉集巻第十二(3004)参照。作者は、柿本人麻呂。
まゆこもり=繭子守り(繭の見守り)。
いふせく=不快で。
「大事に親が、見守っているこの繭の子(娘)守りであることよ、不愉快なことではないか、私にとっては、恋人に逢えないのだから。」
「逢いたい娘の親は、逢わせてくれなくて、邪魔をして嫌だよ」という歌である。前の歌は、比喩歌としてはよくないといっている。人丸作のこの歌は、いいと言っている。親の飼う「まゆ」を娘に例えるのはいいというのである。親心として、娘を隠す情愛は、卑猥な比喩ではないからだろう。あくまでも巧みな言葉使いではなく、内容的に、倫理的であるかどうかを貫之は、比喩歌の判断基準にしているのである。
四(*よつと)には たとへ歌
わかこひは よむともつきし 
ありその はまのまさこは
よみつくすとも
といへるなるへし これは よろつの

☆「④四つ目には、たとへ歌、私の恋の歌は、数え上げてもつきないであろう、荒磯の浜の砂を数えあげても、という歌であろう。」
くさ木 とり けたものについて 
こゝろを みするなり このは か

☆ついて=次いで(「次ぎて=引き続いて」のイ音便)。
みする=見せる。
作者は、不詳。「ありそ海」「浜の真砂」を用いた類歌は、他に見られる(818)、一〇八七年後拾遺和歌集(796)など。
くれたるところ なむなき さ
れと はしめの そへ (*と) おな
し様なれは すこしさまを
かへたるなるへし

☆「これは、自然界の草木、鳥、獣の生き物に続いて、無生物の砂もが、趣情を見せているということである。この歌は、正直で、心を隠すところがないが、はじめのそへ歌に比喩の仕方が同様なので、少し姿を変えたものといえる。」
歌の比喩にされたのは、浜の砂であり、無生物である。それなのに、「よろづのいきもの」の心に「ついて」とあるが、意味が通らないので、「ついて」ではなく、「次いで」と解釈すべきであろう。「生きとし生けるものいづれかは歌をよまざりける」と、この序の初めに、貫之は、宣言したが、無生物の砂さえもが、それに続いて、「こゝろ」を見せるというのである。
すまの海人の しほ焼くけふり 
          
                                                                     (30)
かせをいたみ おもはぬかたに
たなひきにけり
この歌なとや かなふへから(*む)

☆「須磨の海人が塩焼く煙は、風が強くて予期せぬ方向になびいてしまった、という歌は、たとへ歌に適うものだ。」
巻第十四恋歌四(708)参照。
前の歌は、恋多き男が、大らかにその恋を自慢しているが、次の歌のように、「ひどい仕打ちには、他の男にたなびいてしまいますよ」というのが、たとへ歌に適うといっている。貫之は、なかなかのフェミニストである。恋に遊ぶことを自慢するような男を、女は、許しませんよと忠告するような例えをよしとしている。
いつゝには たゝ [の] 
  ☆定家は、「…歌」と歌の種類が続いているので、「たゝ事歌」と校訂している。直言ではなく「徒事」の意で、世の常としての貫之の嘆きの歌、何の(昇進)成果もない徒労の歌というのである。
いつわりの なきなりせは 如何
許人のことのうれしから
まし

☆伊達本では、巻第十四恋歌四(712)であるが、元永本では、欠落して本文にはない。
せは=過去の助動詞「き」未然形+接続助詞「ば」で、反実仮想を表す…もし…たなら。
といへるなるへし これは ことのとゝ
のほり たゝしきをいふなり
このこゝろ さらに かなはす
とめとや云へからん

☆「⑤五つ目に、世の常を詠った歌、もし、嘘のない世の中であったなら、どれ程、(頼りにしているあの)人の言葉がうれしいことでしょう、というような歌であろう。これは、世事が整い、正しいことを願っているのである。この歌の趣情は、(この嘘ばかりの世であるから)全くかなうことはないだろう。とめ歌(希望的観測の歌)ということだろう。」
「求め歌」(希求すべき歌)、「留め歌」(注目すべき歌)とも取れる貫之の願った心の歌であろう。
やまさくら あくまて いろを
つるかな 花ちるへくも 風ふかぬよ
に 
    
                                                                           (32)
☆「太平の、風の吹かぬ世に、その美しい山桜を堪能したことよ、花は散る運命にあっても、風も吹かず散らされることのない、いい世だ。」
この歌の作者は、平兼盛(?~九九〇年没)で、明らかに、後に加筆されたものであろう。和漢朗詠集(681)・一〇一八年、円融天皇の代、摂政藤原実頼の治世を讃えた歌。従五位上の人だが、四代前の祖が光孝天皇であることからか、既に臣籍降下しているにもかかわらず、兼盛王と称していたとあり、かなり、権威をかざし、自己顕示欲の強い性格だったことが推測され、生前にこの歌を加筆させ、それが、伝わったものだろう。
むつには いは(*ひ)
このとのは むへもとみけり さ
きくさの みつはよつはに との
つくりせり
といへる[ことの たくへ]なるへし

☆「⑥六つ目に、住居の歌、この邸宅は、なるほど富んでいる、三重、四重に屋根がつくられている、というような世事のたぐいの歌であろう。」
☆いはゐ=祝い、家居(住居のこととみた)。
削除された「ことのたくへ」とは、「歌の類」で、冗長とみたのであろう。歌の中には、横柄な自慢を詠ったものもあり、貫之はそうした歌への批判として「こと(世事)のたくへ」を言いたかったのであろう。
定家は、「いはゐ」を「祝ひ」として校訂しているが、次の歌に「いはふ心」と正しく表記しており、間違っている訳ではなく、別の意味を持たせたい意図があるとみた。つまり、前の歌は、住居の豪華さ、権勢誇示を詠っており、「家居(いはゐ=住居)の歌」としただけであり、それを祝っているのではないといいたいのではないか。
これは をほめて かみつか
(*つく)るなり この いは(*ひ)とは
すなむある

☆「この歌は、治世を讃え、(権勢のある)上司に仕えた(裕福な)人の歌である。この歌は、(私の住んでいる家を思えば、余りに豪奢であり、一般的)住居の歌とは思えない。」
「世を讃え、長官に仕える」を「世を讃え、上位にのぼらせる」と定家は、世俗と捉えている。甘言の歌と捉えていることは、同じである。貫之の本音を、ここでは、定家が言葉に表したといえよう。
春日野に わかなつみつゝ よろ
を いはふ心は 神そしる
らむ
これらや すこし かなふへからん

☆「春日野ではないが、かすかにも、名声が出るようお仕えしておりますが、長き治世をお祝いする私の心を、天はご存知であろう、知っていてほしい。この歌こそ、いくらか、祝い歌に似合っているだろう。」
巻第七賀歌(357)参照。
わかなつみ=若菜、わが名・摘み、積み(手柄を立てて、名声を得て)。
貫之の立場を「…すこし かなふへからん」と控えめに訴えているのである。
おほよそ むつ(*くさ)に わかれむこと 
☆「むつ」を「む・くさ」に校訂。くさ=種類
は えあるましきことになむ                                       
☆「だいたい、歌を六種に分類することは、できないことである(仲がいいのに、別れることはあり得ないことである)。」
むつ=六、睦。
「…歌のさま むつなり…」と書き初め、「…むつにわかれむことは えあるましきこと…」とは、六義の分類とすれば、おかしな書き様である。真面目に分類しているのでなく、心和らぐ歌とは、どういう歌なのかということを挙げ、貫之の本音をここではっきりと明言しているのである。 
従来の説明では、「歌体論」と括られる歌の様を論じたとされるが、「むつ」を「六」ではなく「睦」と掛詞で、こちらを解説したものとすれば、すっきりと解釈ができるのである。
五世紀古墳時代、仁徳天皇を詠った「そへ歌」と物名を除いて四つの分類した歌には、はじめに悪い例とする歌が述べられ、その後に適った歌が示されている。掛詞に沿ってそれぞれの解釈がなされ、それによって、貫之は、自分の意図を述べていると考えられる。
よのなか いろにつき ひとの心 


(34・変遷論―昔、歌は身分隔てなく詠われてきたのに…)
はなになりにけるより あた
なる はかなきことのみいて
くれは いろこのみのいへに [のみ]
むもれの 人しれぬことゝな
りて まめなるところには ゝな
ゝき ほにいたすへきことにもあら
すなりにたりそのはしめを お

☆「今の世の中は、高位になってしまうとすぐ、人の心は、威張ってしまうので、内容のない(恨みである)歌で、うつろいやすいことばかり詠われ、恋愛通の家々(藤原氏の家系)だけが、こうした歌に浴し、紀氏の家系は忘れられて(埋もれ木のように人に知られず)、まじめな(公式の)場では、花芒(老婆)のように、注目するような人と認められることもなくなってしまった。」
あたなる歌=徒なる(いい加減な)、仇なる(恨みである)・歌。貫之にとって、藤原氏主流の威勢のいい歌は、心地よいはずもなく、恨みを感じているのである。
いろ=位階を意味する色。
はなになる=花のように艶やかになる、威張る。
より=…ので。
いろこのみのいへ=暗に、当時、隆盛していた藤原氏を示す。
のみ=強調の副助詞。貫之は、この「家」を強調して、「むもれ」で、文を切りたかったのだが、定家は、省略してしまい、「むもれ木」と理解する文にしてしまった。
むもれきの=埋もれ木の、埋もれ、・紀(氏)の。
しれぬ=知れ(自下二・知られる)・ぬ(否定の助動詞)。
まめなる=まじめである。
「埋もれ」と一旦、切ると、この「埋もれ」の主語は、「あだなる歌」となり、「いろこのみのいへにのみ」の掛かって理解できるが、「埋もれ木の」とすると、「埋もれ木」が、「いろこのみのいへにのみ」と続き、他の「いろこのみ」でない人には「人しれることとなりて」ということになり、意味不明となる。そのように、定家も理解したようで、「のみ」を省く校訂をしている。
ほにいたす=穂に出だす(他動詞・人目にさらす)。
貫之は、自分のことを「むもれ、きの人(紀氏の人々)しれぬこと(埋もれて、紀氏の人々は知られない)」と嘆き、「花すすき 穂にいたすへきことにもあらす…」(「花すすき(老婆を暗喩)」に自分を重ね、才能を認められず、昇進すべきなのに、なされていないと訴えている。)
もへは かゝるへくなむあらぬ い
にしへの ゝのみかと はるの花
のあした あきつきことに 
候ひとゝゝを めして ことにつけ(*つゝ)
をたてまつらしめたまふ ある

☆「歌のはじめを思えば、このようではなかった。昔からの代々の帝は、春の花の咲く朝、秋の夜ごとに殿上人に、事あるごと、歌を詠まされた。」
反藤原氏勢力の貫之は、没落前の栄華を忍び、今を嘆いて、歌にその想い、口惜しさを込めている。
ゝなを そふとて たよりなき
ところに まとひ あるは つきを


(36)
おもふとて しるへなきやみに た
とれるこゝろを みたまひて[は]
さかし[き] (*を)ろかなりと しろし
めしけむ[かし] ゝか(*ある)のみにあら

☆「ある時は、花を増やしたいとあてのない所に迷い、ある時は、月を慕って案内もない闇の中を歩く人の気持ちを思いやり、賢愚を示された。それだけではない。」
これでは、意味がはっきりしない。掛詞で、別の意味を探るべきである。
あるはゝなをそふとて=あるは花を添ふとて、ある母名を添ふとて。
名を添ふ=名声をつける。
とて=逆接の仮定条件の接続助詞…としても。
たよりなきところに=頼りになるものがないことに。
まとひ=迷ひ(思い悩み)。
あるは=ある(母親)は。
おもふ=望む。
しるへなきやみ=標(導き)なき・やみ(闇、病み)。
たとれる=たどれ(たどる・自四・命令形・思い悩む)・る(完了の助動詞「り」連体形)。
さかしき=賢し(賢い)、険(さが)し(=危ない)・連体形。
しろしめし=知っていらっしゃり、お治めになり。
かし=終助詞・念を押す気持ち、また、皮肉、冷やかしを示す…よ、ねえ。
「ある母は、名声を高めようとしても、実家に財力がないことを思い悩み、また別の母親は、世継ぎを願ってみても、子を授からずどうしたらいいかわからない病に思い悩む様子をご覧になり、(前者の女には)それは危ない状況だとか、(後者の女には)それは疎遠で、逢っていないからだとか言ってうまく、帝は、お治めになったのですね。それだけではない。」
藤原氏が隆盛を極める前のことを言っているとみたが、例えば平城天皇の代のこととしてみれば、「ある母、名を添ふとて…」は、平城天皇の宮人であった伊勢氏(嵯峨天皇の皇太子であった高岳親王の母の出自)も葛井氏(阿保親王の母の出自)も財力があった訳ではないことを、また、「あるは…」は、東宮妃であった藤原氏の娘帯子も、縄主の娘も子がないことを詠んだものと理解できる。天皇家の財政は、妻の実家に頼るが、それに伴う藤原氏の進出に警戒していた様子が見て取れる。
す さゝれいしにたとへ つくは
やまに かけてきみを ねかひ
よろこひ にすき たのしひ心
にあまり ふしのけふりに よ
そへて ひとをこひ まつむしの
ねに ともをしのひ たかさこ す
みののまつも おいあひ(*あひをひ)のやう
におほえ (*お)とこやまの むかしを


(38)
おもひいて(て) をみなへし (の)ひとゝき                              
をくねるにも を言ひてそ
なくさめける またはる

Cf.脱字「て」、「出づ」下二連用形とすれば、「て」はなくてよい。
脱字「の」、なくても、理解できる。
☆「(大岩になる)小石に例え、御栄を願い、
(343)わが君はチヨに八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで、よみ人しらず
☆筑波山に託して、(つくばふ=ひれ伏す)ひれ伏してとりなしを願い、
(1095)筑波嶺のこのもかのもに蔭はあれどみかげにますかげはなし、東歌
☆喜びは、過分であり、楽しさは心にあまり、
(865)うれしきを何につつまむ唐衣たもとゆたかにたてといはましを、よみ人しらず
☆富士山にたなびく煙に例えて人を恋い、
(1028)富士の嶺のならぬおもひに燃えは燃え神だにけたぬむなしけぶりを、きのめのと
☆松虫の声に友を偲び、
(202)秋の野に人まつ虫の声すなり我かとゆきていざとぶらはむ、よみ人しらず
☆高砂、住の江の松も互いに老いたように思え、
(909)たれをかもしる人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに、藤原おきかぜ
(905)われ見ても久しくなりぬ住の江の岸の姫松いく世へぬらむ、よみ人しらず
☆男盛りであったむかしを思い出し、老いを嘆き、
(889)今こそあれ我も昔は男山さかゆく時もありこしものを、よみ人しらず
☆女郎花の一時の愚痴にも、歌を詠いなぐさめたものだ。
くねる=愚痴をこぼす。
(231)あきならてあふことかたきをみなへしあまのかはらにおひぬものゆへ、藤原定方」
に 花のちるを あきのゆふく
れに このはのおつるを きゝ あ

☆「又、春の朝、花の散るを見、秋の夕暮れに、落葉を聞き」
るは としことに かゝみのかけに
ゆる ゆきとなみとを なけき

☆「また、年ごとに鏡に見える白髪と皺を嘆き、
(460)うばたまのわが黒髪やかはるらむ鏡の影にふれるしらゆき 貫之)」
くさのつゆ みつのあわ[と]を
て わかをおとろき あるは
きのふはさかえ (*を)こりて 時を
うしなひ にわひ したし
かりしも うとくなり あるは 

☆「草の露、水と泡を見て我が身をはっと顧み、
(860)露をなとあだなるものと思ひけむわが身も草におかぬばかりを、藤原これもと
(827)うきながら消ぬる泡ともなりななむ流れてとだにとのまれぬ身は、とものり
あるいは、昨日は、栄えおごっていたものが、権勢を失い、今まで親しかったのに、疎遠になる。
(846)草ふかき霞の谷に影かくしてる日のくれしけふにやはあらぬ、文屋やすひで
(貫之集)黒髪の色ふりかかるしらゆきのまちいづる友はうとくぞありける」
山のなみをかけ なかのみつ
くみ 秋はきのしたはを なかめ


(40)
あかつきの しきのはね(*かき)を かそ
☆「又は、松山の浪を契り、変わらぬ情愛を持ち、
(1093)君をおきてあだし心をわがもたばすゑの松山浪もこえなむ、東歌
野中の水を汲み、昔を偲び、
(887)いにしへの野中の清水ぬるけれどもとの心をしる人ぞくむ、よみ人しらず  
秋萩の下葉を眺め、ひとり寝をし、
(220)秋萩の下葉色づく今よりやひとりある人のいねがてにする、よみ人しらず
暁のシギの羽を数えて、恋人の訪れを待ち、
(761)あかつきの鴫のはねがき百羽が君がこぬ夜は我ぞかく、よみ人しらず」
へ あるは くれたけの うきふし
を 人にいひ よしのかはをひ
きて よのなかを うらみきつる
に いまはふしのやまも けふ
り たゝすなり なからのはし
も つくるなりときく人は 
にのみそ 心をなくさめける

☆「また、呉竹にかけて、世の中の憂き事を人に話し、
(958)世にふればことのはしげき呉竹の浮節ごとに鶯ぞなく、よみ人しらず
吉野河を引き合いに出して、世の中を恨み続けたが、今は富士山の煙も立たなくなって、諦めている。
(673)逢うことは玉の緒ばかり名のたつは吉野の河のたぎつ瀬のごと、よみ人しらず
長柄の橋も改築すると耳にした人は、歌に結局は慰めを得るということだ。(昔より不変のものはないという無常をいう。)
(1051)なにはなる長柄の橋もつくるなり今はわが身をなににたとへむ、伊勢)」
いにしへより かくつたは[れ]るう                                    
ちに(*も) ならの御時よりそ ひ
ろまりにける かの御よや 


(42・二歌聖論―歌の聖人丸と赤い衣の人になれなかった人)
こゝろを しろしめしたりけ                                      
☆「昔よりこのように、受け継がれてきた歌は、平城京の時代より広まった。その御代に、歌の心が知られるようになったのだろう。」
万葉集は、(997)によれば、大同四年(809年11月)に公にされた。この年の五月に平城天皇は、嵯峨天皇に譲位し、平城上皇となって、十二月には平城京に移り住んでいる。その後も、薬子の変で、平城京への遷都、政権掌握を図るが、失敗し、「太上天皇」として、平城京に住んだことから、「ならの御時」は、「平城上皇が平城京に住んだ頃(八〇九年十二月~八二四年没)を指すと見られる。
 伊達本には、「ならの御時」の横に「文武天皇」と添え書きしている。つまり、定家は、藤原京(七〇〇年前後)のころに万葉集が広まったと考えている。
む かのおほむ時に おほき
み[ゝ]つのくらゐ 柿本の人
なむ のひしりなりける

☆「その昔の御代に正(三と三で)六位、柿本人丸は歌聖であった。」
定家はここの「ゝ」を省いてしまったために、それ以後、大きな論争を、無駄に起こしてしまった。人麻呂は、天武、持統、文武天皇の時代の歌人。正史には、その記録がなく、三位であるはずがない。
おほき=正。
これは きみもも みをあは
せた(*り)といへる(*ふ)なるへし 秋の
ゆふへ たつたかはに なかるゝ
もみち(*を)は みかとの 御めにゝ
しきと (*たまひ) はるのあした  
よしの(*ゝ)やまの さくらは 人
こゝろに(*は) くも(*か)と(*のみなむ)おほえけ

☆「これは、あなた様(友則)も人麻呂もその位は、三に三を合わせた(低い)もの(六位)といえるだろう。秋の夕暮の立田河に流れる紅葉は、帝の目には錦と見え、(ならの帝-平城天皇-の御歌として、後述している)春の朝、吉野山の桜は、人丸(=友則)の心に、雲に見えたのである。」
きみ=友則のこと。
人=人麻呂のこと。
この序を書いた時、従兄の友則は亡くなっており、人麻呂と同様に、六位の低い官位で没したことをいいたいのである。共に古今集を編纂したが、完成を待たずした他界した従兄への愛、歌にこめた想いが表されていると言える。
貫之は、人麻呂に友則を仮託しており、もちろん、人麻呂に吉野山の桜の歌はなく、雲ではないが、雪と見た友則の歌がある。古今集完成を待たず、亡くなった友則の詠う雪が、(火葬の)雲と見えたのは貫之の心象風景ではないだろうか。
(60)み吉野の山べにさけるさくら花雪かとのみぞあやまたれける とものり
る また 山(*の)部(*の)赤人云ひとあり
けり にあやしう たへなりけり


(44)
ひとまろは あかひとか ゝみに                                     
たゝむ か(た)く 人は人
かしもに たゝむこと かたく
ありける 奈良の御

☆脱字「た」、「か・駕」の下部が「た・多」に読める。
「また、山部赤人という人がいた。歌に汗を流し、一生懸命に歌をつくり、刑部の地方官をしていた。人麻呂は、(友則と同様)赤い色の衣(=五位)の位に昇進するようなことができず、赤人は、人丸(六位)の下の身分に立つことは、確実で、同じように六位と低い身分のままであった。」
あやし=落す(血、汗などを流す)・連用形。
うたへ(訴へ「うったへ」の促音無表記)=刑部(ぎょうぶ=訴訟業務の司)、歌部(貫之の造語と考えれば)。 
かたく=難し(むつかしい)、堅し(はっきりしている)。
人名としてその人を意味する時には、漢字で、暗喩としての掛詞の意をとる時には、平かなで表記しているとみた。
友則は、四〇歳過ぎまで無位で、六位から昇進することはなかったのを嘆いている。
山部赤人の官位は、外従六位下で、上総少目とあり、元正・聖武天皇朝(七一五~七四九年)ころの歌人でもあり(「外」が示すように、既存豪族に出自を持たない)下級地方官であり、人麻呂と同じ六位でも、四位以上には、昇進できないことなど、制限されていた身分であったのであり、同じ六位でも、外六位の方が下位になるのである。とにかく、人麻呂と同様、不幸にも卑官であったことを、貫之は訴えたいのである。
従来の解釈では、「歌が非常にうまかった」ということであるが、掛詞をとれば(つまり、あからさまに言えない、本当に伝えたいことを掛詞で表現しようとしている)、赤人について、歌に熱心であったことと、役職(歌部とすれば、貫之の皮肉って作った役職か)を紹介しているだけで、歌に優れていたとは一言も言っていない。ここでいっているのは、官位についてだけであり、歌人としての優劣評価ではないのである。

たつたかは もみちみたれて
なかるめり わたらは にしきなか
やたえ 

☆「奈良の帝(平城天皇)の歌、龍田川に紅葉が乱れて流れているようだ、もし、渡ろうとすれば、錦を途中で切ることになるだろう。」
巻第五秋下(283)参照。
「赤い衣の殿上(竜田川に暗喩)では、東宮妃・帯子と同じく東宮妃・縄主の娘とが、騒ぎ、競って評判を得ようとしているようだ、私が、どちらかに通じれば、この二人についている二職(中宮職)は仲が絶えて(悪くなって)しまうだろう。」
藤原式家のふたりの女が、安殿親王の妃になっていることを詠んだ歌とも解釈ができるとみたが、どちらだろう。
人麿
むめの(*梅)花 ともえす 膝形(*久方)
之天霧る雪の なへてふれ
ゝは
ほのゝゝと あかしのうらの 朝霧
しまかくれ行 (*舟)をしそ思 

☆「人麻呂の歌、梅の花は、雪と紛れて、白い花とも見えません、どんよりした空から、雪が一面降り積もっているので。ほのぼのと夜の明ける明石の浦に、霧が立ち込める中を、島のかなたに消えてゆく一艘の舟を思いやるよ。」
巻第六冬(334)、第九旅心(409)参照。
初めの方の歌は、本文では、平かなで表記されているが、ここでは、当て字のような漢字が用いられている。何かの意味を付与したい意思があるに違いない。「膝形」とは、膝を地につけたままの有様と解釈でき、「天霧る雪」の「雪」は「靫(弓を背負う入れ物)、武人を象徴」の意味を隠したいのではないだろうか。人麻呂は、壬申の乱においては、大海人皇子(のちの天武天皇)の側につき、吉野に行っているから、堅い主従関係が表されているとみた。
其ともみえす=それとも見えず、其とも(大友皇子)・見えず(現れることなく)。
天霧る雪=空を曇らせ降る雪、天下を征した武人(貫之は、作者の意図と離れて、「天霧る」に「天武」をみているのではないか)。
なへて=なべて・一面に、並べて(並ぶ・他下二連用形)。
ふれゝば=降れ(自四・已然形)、振れ(他下二・未然形・広く告げ知らせる)・れ(完了の助動詞「り」已然形、可能の助動詞「る」未然形)・ば(仮定条件の接続助詞)。降り積もっているので、広く知らせることができれば。
「大友皇子は姿を現さなかった、何故なら、私が膝をついてお仕えする大海人皇子(後の天武天皇)の(配下の)武人が居並んで、梅の花のような王は、誰かを広く知らせたので。」
貫之は、自分を梅の花に見立てて、雪の中に、香り高い自分を見出してほしいと願っているように、私には思える。それと同じように、人麻呂の時代には、存在しなかった「天武」の名称を、貫之の目は、「あまきる」の中に、「天武」とみているのである。
そして、次の歌では、かなたに消えゆく舟には、流刑される人が乗っているのであり、ともに世に認められず、排斥される無念を思いやっているのである。このように、何故貫之が、人丸を「歌聖」といったのかが示されている。人丸は、自然を詠みながら、巧みにその掛詞で、敗者の感情、想いを吐露しているのであり、貫之の詠み方と同じなのである。共に貴族世界に身を置き歌人として用いられながら、低い身分でいることの不満をばねに、自然詠の歌を詠み優れて、権力争いの敗者としての立場からの発信をしているのである。その意図は、隠された形で、歌の中に表され、決して表に出ることは許されなかったが、勅撰集という大舞台で、想いが後世に残ることを、大いに期待したに違いない。敗者は、文学をつくるという。貫之は、やっと生まれたばかりの女文字の可能性にかけて、その言語操作能力の限りを尽くして、表向きの自然詠の裏に、敗者の想いを託して歌を作ったのである。


(46)
赤人
はるのゝに すみれつみにと こし
われそ 野をなつかしみ 一夜
ねにける
わかのうらに しほみちくれは
かたをなみ あしへをさしてた
つなきわたる

☆「赤人、春の野に、すみれ摘みにやってきたのだが、野がなつかしく一晩、野宿してしまった。和歌の浦に潮が満ちると、干潟がなくなるので、葦のはえている所に鶴が、鳴きながら渡っていくよ。」
万葉集巻第八(1428)、第六(924)。
すみれ摘みにやってきた「野」を、貫之は、野辺送りをするところの「野」で、墓所であり、他界した友則を想い、赤人の歌に彼への追悼の意を引き出しているとみた。
つみにと=摘みにと、罪(=罰)・二度(処?)。前頁に、赤人は、「うたへ=刑部」の職に関係があったことが読み取れる。少目とは、主だった大国に置かれた国司の下の官事の記録や公文書をつくる仕事だから、刑部の文書作成をしたことが推測される。
われそ野を=我ぞ野を、割れ(女陰の隠語)・その(苑=物事が行われる場所)=つまり、女郎屋・を。ここで、「野」を万葉仮名として、また、表意文字としても使っているとみることができる。
赤人は、この歌をどのような意でつくったかというと、
「赤人、春の野のすみれ摘みではないが、刑部の仕事で、(罪人を)罰するための文書作成のため、二度訪れたことがあるので、その地にある女郎屋を懐かしみ、一晩泊まってしまったよ。」
この裏詠みを能書は取らないように、万葉仮名とも、表意文字ともとれる「野」を使っている。
貫之は、赤人に関して、その歌の評価はしていないのは、こうした隠された痴話の歌のせいではないか。しかし、表の歌の意は、美しく、亡くなった友則を思い出すには、正に、うってつけの歌とみたのだろう。

わか=和歌(浦=地名、今は、陸地になっている)。
しほ=潮、いい機会(勅撰集を編纂すること)。
かたを=潟を、方(友則のこと)を、片緒(鼻緒の片方)。
あしへ=葦辺、足部(下から支える仲間)、足上(足の甲)。
さし=指し、指示し、(紐を)締め。
たつなきわたる=たづ(鶴)啼き(泣き)渡る、手綱(ふんどしの異称)・着(着る・連用形)・渡る。
「和歌の心の世界に、いい機会がやってきたのに、あの方(友則)は亡くなったので、(残された)仲間に(続けるように)指示するのだが、(残された三人は)泣き続けるのです。」
貫之は、この歌に友則を失った嘆きを読み取っているように思える。このように、帝、人麻呂、赤人のどの歌をとっても、貫之は、自らの想いをそれらに、再構築し読みとっていることがわかる。古今集編纂の途中に、友則を失ったことは、大きな悲しみ、無念であったにちがいない。
友則は、残された三人にとって、親のような存在であったのだろう。他の水鳥の名ではなく、子を大切に育てる「鶴」のイメージが友則に合致している。

一方、赤人自身の歌の意は、どうなのか。裏読みしてみると、
「和歌の浦に満潮になり始め、片方の履物の鼻緒がないので、足の甲を縛って、ふんどしを身に着け、(急いで)渡るよ。」
万葉集にあるこの歌は、赤人自身が作った短歌に対する反歌二首の内の一首である。当時、聖武天皇の離宮が、和歌の浦の近くの雑賀野にあったのであろう、景勝地として、大君とともに寿いだ短歌が詠われている。それに対する、自身の反歌として続いている。反歌には、但書に「右は年月記さず」、もとの資料にあった注「玉津島に従駕す」とある。聖武天皇のお伴をして、短歌が詠われており、この歌は、後に戯れ歌として、赤人が付けたもののように思われる。潮が引けば、地続きになる女郎屋のある島に渡り、満潮になり始め、あわてて、急いで帰り渡る赤人自身の姿を詠んでいるように取れる戯れ歌である。前にある「野をなつかしみ…」の続編のような歌で、こうした歌をつくる赤人を、人麻呂と同等の「歌の聖」と、貫之が、認定する訳がなく、してはいない。


(47・万葉集撰集―無名の歌人を集めた歌集)
この人々をお(*ゝ)きて またすくれた                                
ひとも くれたけのゝに きこ
え かた[く]いとの よりゝゝに たえ
なむ(*そ)ありける これよりさ
きゝゝの歌を あはせ(*つめ)てなむ
葉集(*えうしふ)と[は] なつけられたりける

☆「この人たちのほかにもまだ、優れていても、その時代、時代に有名になれなかった人々は、いつの世にもいつもいた。そうした以前の歌をきっと集め合わせたのだろう。『万葉集』という名が付けられたのであった。」
おきて=置きて(除いて)。
きこえかたく=評判になることができず。
よりより=撚り撚り、度々(ときどき)。
たえすなむありける=絶えず(副詞・いつも)・なむ(強調の係助詞)・あり・ける(「なむ」の係り結びの連体形)。いつもあるものだ。
さきさき=先々(過去)。
「聞こえ難く」は、前の「きこえ」に掛かっているのであるが、定家は、連綿の区切りから判断して、「片糸」と「かたく」を「糸」に掛けて校訂している。
「くれたけ」は、節(よ)に掛けた「世」の、「いと」は「よりより」の縁語で、枕詞のような導入語になっている。


(48・六歌人評―六人の反藤原氏主流派の歌人の歌)
ここに いにしへの こゝろ(*こと)をも 歌                          
こゝろをも しれる人 わつか
にひとり ふたりなり (*き しかあれと) これかれ
えたるところ えぬところ た
かひに なむある かのとし(*御時)よ

☆「ここにおいて、昔の趣情にも、歌の本質をも知っている人は、わづかに、ひとりかふたりである。それぞれに得意、不得意がある」
ここで、「六歌仙評」が繰り広げられると、伊達本では説明するが、優れた歌人を挙げているのではない。優れているのは、「ひとりふたり」と書いている。つまり、業平と小町の二人をいいとし、他は、どうでもいいというのである。この六人が選ばれた基準は、時の権力者、藤原氏に敗北没落した人たちである。貫之と同じ、反藤原主流派であるということである。歌が優れている訳ではないのである。
り このかた としは もゝとせ[に]あ
まり よはとつきになむなり
にける (*いにしへの事をも うたをも忘れる人 よむ人おほからす)いま このことをいふに

☆「その奈良の御時より百年あまり、世は十代を経ている。」
定家は、長い時間を経て、昔の事や歌も忘れた人は多く、詠む人は多くはないと付け加えている。
つかさくらゐ たかき(*人)をは
(*た)やすきやうなれは いれ
す そのほか(*に) ちかきに そ
の名 きこえたるひとは いとすく

☆「今、批評するに、見当がつきやすいので位の高い人を外す。また最近の有名な人に、取り立てて言うほどのいい歌もない。」
一般的には、音節の途中で行替えをするので、「はかやすし」という言葉が考えられる。
はか(=見当)やすし=目星がつけやすい。
つまり、誰についての歌かわかりやすいと危惧しているのではないか。敗者としては、時の権力者の歌は、いれたくないということだろう。
すく=「しうく(秀句)」の直音表記。
すくなし=いい歌がない。これに、副詞「いと」がついて、「取り立てて言うほどのいい歌もない」という意味になる。
定家は、有名な人として、僧正遍照をこれに続けてあげている。「かやすき」を「たやすき」と理解して校訂している。「か」も「た」も接頭語で、「易し」が中核である。そうすると、「たかき(*人)をは」の「をは」は、格助詞「を」+係助詞「ば」(強調)。そのように、定家は理解していると考えられる。ここでは、優れた「六歌仙」ではなく、六人の政治的敗者の歌人を取り上げ、ふたり(業平と小町)をほめ、(遍照を)いやらしいとけなし、よくわからないとする歌人(喜撰=貫之)まで、とぼけた解説が展開されるが、歌の掛詞を取って解釈してみると、痴話であったり、傲慢な歌から見える歌人の人間性を批判し、暖かい心情の歌を貫之は、評価しているのである。


(50)
なし(*すなはち) 僧正遍昭は こゝろを(*さまは)                         
えたれとも まことすくなし
たとへは ゑにかけるを(*う)な
を見て いたつらに 心をうこ
かすかことし

☆「①僧正遍照は、歌の趣情を心得ているが、誠実な人とはいえない。例えば、絵に描かれた女を見て益もないのに、(色欲を持って)心ざわめかすようなことだ。」
遍照(八一六~八九〇年没、八五〇年出家、従五位上)は、貫之にとって、彼の祖父の世代の人で、会ったことはなかったであろうが、噂に聞き知っていたのであろう。同じ政治的敗者であるが、桓武天皇の孫に当たり、仁明天皇の寵遇を受け、貫之とは格段の差のある地位にあるが、その色欲を指摘して、人格を批判している。
あさみとり いとよりかけてし
らつゆを たまにも ぬくか(*ける) はる
あをやき(*柳か)

☆「浅緑の、麻の実を取って、よりをかけた麻の糸で、宝石を貫くように、白露をつき通すのか、春の青柳はそんなふうにみえます。」
巻一春歌(27)参照。
「麻の実を取る位に、歳老いて(称徳天皇は四十六歳)、たいそう頼りにしていた弓削道鏡を天皇にも引き抜くというのか、武功を挙げた吉備真備は嫉妬している。」
ここでは、詞書が略され、貫之は、自分に置き換えた意味に理解しているように思われる。
あさみとり=浅緑(七位の官位の衣の色)、麻実取り。
しらつゆ=白露、しらつ(「無名だった」の意を含む)・ゆ(弓=弓削)。
あをやき=青柳、襖(武官の朝服)・焼き(嫉妬すること)=吉備真備の嫉妬。
弓削道鏡と吉備真備は、称徳天皇が重用した、側近であり、共に貴族出身ではない、稀な「たたき上げ」の臣下である。天皇にまで登ろうとする道鏡に、真備が嫉妬したとしても、おかしくはない。また、作者にとって、貴族でもないまた、一介の僧でしかないこのふたりに、嫌悪感を持ったに違いない。
貫之は、作者の意図とは別に、自分の想いをこの歌から、取り出している。
「七位の衣の色の浅緑色の春の青柳に、糸のような細い昇進の望みをかけてみたが、その糸は露ほどの願いを叶えて、玉の昇進にしてくれるでしょうか。」
貫之は、春の昇進の時ごとに、無念のため息を吐いたのではないだろうか。
はちすはの にこりにしまぬ こゝろ
もて なにかは つゆをたまと あ
さむく

☆「蓮の葉は、泥に染まらない心を持っているのに、どうして、露を玉と偽るようなことをするのだろうか。」
局第三夏歌(165)参照。
はちすはの=蓮の葉の、恥す・巴(「巴」の篆書体の形からともえの形で、性交を暗示している)・の
にこり=尼(仏教に帰依した称徳天皇のこと)・こり(香り)。
もて=以て(「もちて」の転)。
「道鏡は、恥ずべき交情をしない心を持っていたのに、どうして、称徳天皇は、一介の僧を天皇にするような偽りをするのだろうか。」
道鏡の称徳天皇とのセックススキャンダルは、うそであることがわかる。そして、
これも、桓武天皇の孫にとっては、政治の頂点に登ろうとする道鏡が許せなかったのであろう。
この二つの歌に共通する「露と玉」は、はかない現実と高位の夢である。本文には、それぞれに詞書があり、意味が限定されるが、貫之は、自分の意に読み替えられるようにするために、ここでは取り除いている。
また、この二例の歌に、作者の色好みはなく、「歌のこころをえたる」の論評の通りである。彼も、仁明天皇の死後、出家するなど、隆盛する藤原氏を避けるように、生きたのである。
嵯峨のにて むまよりおちてよ
める


(52)
にめてゝ をれるはかりそ を                                     
みなへし われおちにきと 人に
かたるな

☆「嵯峨野で落馬して詠む 女郎花の名をめでて、折ろうとしただけだ、私が落ちたと人に話さないでくれ。」
巻第四秋上(226)参照。
この歌は、本文では詞書がないが、ここでは、落馬を詠っているが、読む人は、「女に堕落した」と読み取ることはもちろんである。
貫之の論評である「まことすくなし」、つまり、色好みをよく表している歌であろう。
在原業平(*は) そのこゝろ あまりて
事あかす(*ことはたらす) しほめる花の
(「ら」にみえる?)て にほ(*ひ)のこれるか ことし

☆「②在原業平は歌の情趣にあふれて、ほめてもほめたりない。枯れた花の、色のさめても、香りが残っているように、その余情が残っているようなものである。」
言あかす=ほめる言葉に飽くことはない。
「事あかす」とあるが、意味から判断すると、最大級にほめている。しかし、そこを、「彼の歌は、十分に言葉で表現しえてない」と従来の解説にはあるのだが、そうだろうか。定家は、「事あかす」の「事」を私と同じように解釈して、「ほめ言葉が足りない」と言いたかったのではないか。稀代の歌人の歌に対する評価は少しも揺らいではいない。
月やあらぬはるや むかしのはる
ならぬ わかひとつは もとの身
にして 

☆「月も春も変わらない様に、私の不利な立場と、平城天皇の孫である出自においては、変わらないことよ、高貴な身分なのに相変わらず、官位の低いことよ。」
局第十五恋五(747)参照
ひとつ=非(不利な立場にあること)・と・つ(づ・出=出自のこと)。
もと=元、品(身分)。
して=逆接を示す接続助詞…のに。
ここでは、本文にある詞書を省き、恋歌ではなく、我が身の不運を嘆く愚痴の歌に取っている。
月も春も変わらないものとして描き、我が身の高貴な身分も変わらないはずなのに、低い官位も変わらないと嘆いているのだ。
おほかたは 月をも めてし これ
そ このつもれは 人の老となる物

☆「だいたい、月は時間でめでるものではない、これこそ積もれば、老いになるもの。」
局第十七雑部上(879)参照。
前歌に続いて、「月」を詠んでいる。こちらは、ユーモラスでさえある。
ねぬるの ゆめをはかなみ まと
ろめは いやはかなにも なりぬへき(*まさる)
かな 

                                                 (54)
☆「もともとの高貴な身分が捨て置かれる世の中で、昇進の夢は、すぐ消えて、うとうとすると、いやはや、当てにできない噂になって当然だよね。」
局第十三恋三(644)参照。
ねぬる=根(根源)・寝る(ぬ・下二連体形)=出自が認識されず。
はかな・果無=すぐに消えるさま、頼りない名声。
はかなし=すぐ消えるさま、、目当てがない。
いや=感動詞・いやはや。
後朝の歌で、「はかな」を掛詞にして、「あっけなく過ぎた夜」と「頼りとならない自分の名声」を嘆いている。詞書を省いて、平城天皇の孫としての政治的な不満を吐露して、恋の歌に終わらないところが巧みなのである。
定家は、「いやまさる」として、校訂している。本文では、四、五句が、「おほつかなくも」、「なりまさるかな」となっている。これら三つの歌は、昇進しないいらだち、老いへのいらだち、虚しさの共感を貫之に与えていると思われる。その共感の深さが、「そのこころ あまりて…」なのであろう。
文室康秀は ことは(*ゝ)たくみにて そ
のさまに お[よ]はす いはゝ あき人
のよきゝぬ きたらんかことし

☆「③文屋康秀は、言葉表現が巧みであるが、その姿は、内容に至っていない。言うなれば、(教養のない)商人が立派な服をきているようなものだ。」
これが、一般的な解釈である。
みにおよはす=身(内容)にば(及ぶ自四未然形)・ず(追いつかず)、美(み・呉音)に・及ば・す(使役の助動詞「す」)美に届かせる=美しいといえる。
つまり、この「美に及ばす」というのは漢文調で、his words make beauty within his reach という構文と理解すればわかるだろう。この漢文調を、定家は、「負わず」と校訂して、貫之の意図をまったく否定してしまった。
商人に対する当時の印象が、どのようなものだったのか、今の解釈からいえば、否定的な評価であり、教養のないとしたが、日葡辞書(室町時代)には、「屏風と商人とは すぐなれば身が立たぬ」とあることから、「実直な」という意味なのだろうか。
以下の二首を見ても、巧みな歌であり、貫之がけなすような痴話でもないので、評価した歌とみて探ってみた。
「文屋康秀は、言葉表現が巧みで、その表現は、内容的にも美になっている。例えれば、実直な人が美しい服を着ているようなものである。」
確信は持てないが、外見はいいが、心が信用ならない人は、この時代からあったのだろうが、康秀は、外見の表現はもちろんよくて、中身である品格も備わっていると評価している。文屋氏は、天武天皇四男長親王の子が文室氏を名乗っているので、その一族であろう。正六位上の卑官であり、歌に秀でており、貫之と敗者としては同じである。
ふくからに のへ(*よも)のくさきの しほ
るれは むへ山かせを あらし
といふら(*む)

☆「風が吹く折に、野原の草木が湿るので、山風を嵐というみずみずしい山の気というのはもっともなことだ。」
巻第五秋下(249)参照。
しほる=湿る。
あらし=嵐(みずみずしい山の気をいう)、荒らし、有らし。
一般的には、「しほる=萎れる」と解釈されているが、元々の漢字の意味通りに理解しているのである。当時のインテリは、私たちが考える以上に、漢字に精通しており、この歌は、この巻の筆頭に挙げられており、確かに言葉巧みなのである。
ふかくさの の御國忌に
くさふかき のたにゝ かけかく
してる ひのくれしけふ
にやはあらぬ

☆「仁明天皇の命日(一周忌、八五一年)に詠んだ歌、草の生い茂る霞の谷に、その姿を隠して、照る日の暮れた今日の日であったなあ。」  
局第十六哀傷(846)参照。
貫之は、康秀をうまいとほめている。巧みな点は、「山風を嵐」としたり、深草の帝を「くさふかき」に読み込み、「日」にたとえている。
仁明天皇は、良房の陰謀にのり、八四年、作者と同族の文屋宮田麻呂一族を流罪にしている。その没落の一族である彼が、故人になったとはいえ、仁明天皇に親愛の気持ちを持っているとは思えない。良房は、承和の変で、それまでの慣例を破り、外戚となり皇位直系継承とし、大納言に昇進しており、貿易利権を巡り、宮田麻呂を排除したことをにおわせる歌である。
くさ=具者(ぐしゃ)の直音表記、ここでは、良房。
ふかき=深し(親密な)・連体形。
霞=掠(かす)む・下二連用形・奪い取る。
たに=谷、商布(租税としてではなく交易用に当てた布地)。
照るひ=仁明天皇のこと。
かけ=影、恩恵。
「大納言良房が外戚となり、深い間柄になって、彼の奪い取った貿易利権の恩恵に、あずかった仁明天皇がお隠れになったのは、今日の日でありましたなあ。」
作者は、正六位上、縫殿助とあるから、何かしら布を扱った職についていたと推測され、良房の「商布」に絡む画策を知っており、それを横目でみていたと思われる。
宇治山の(*そう)喜撰は ことはかすかに
して はしめ(*を)はり たしかなら
す いはゝ あきのつきを 
に あかつきの くもにあへるかこと


(56)

☆「④宇治山に住む喜撰は、詠んだ歌が少なく、生没もはっきりしない。言うなれば、秋の月を見ようとして、雲にかかった(すぐに沈む)赤い月を見るようなものである。」
あかつき=(明け方の)暁、まさに赤い月(沈む月)。
喜撰を「月」に見立て、早朝未明の雲に象徴される不運に見舞われているとする「自画像」を、貫之は描いている。
わかいほは 辰巳しかそ
なく(*すむ) をうちやまと 人はいふ
なり

☆「私の家は、都の東南にあり、鹿の住むような所で、世を憂い、このように泣き暮らしおります、この世を憂しのやま(宇治山)と人々は言っています。」
巻第十八雑下(983)参照。
「しかそすむ」と校訂した定家は、「鹿ぞ鳴く」「しかぞ泣く」の貫之の悲しみは取り上げていない。また、織田正吉の説を挙げれば、「たつみ」は、はじめの一字を取って、「た(忠岑)つ(貫之)み(躬恒)」になっており、言葉巧みな貫之ならではの知恵であろう。
「私の粗末な家は、都の東南の鹿のなくような所にあって、忠岑と躬恒とも同じように、このように貧しく泣いております、ですから、世間では、ここを宇治山というのです。」
友則亡くなり、三人とも身分は低く愚痴っているのである。「宇治山」は、「宇」と「山」から「宇多天皇」を暗喩し、その即位を寿ぐことも意図したのかもしれない。
織田正吉は、喜撰=貫之としている。紀撰だったのかもしれない。
よめる おほくきこえねは かれ
これを かよはして よくしら

☆「詠んだ歌は、多く残されていないので、あれこれ考えてもよくわからない。」
自詠自薦なのであろう、とぼけた解説でごまかしている。
(*を)小町は いにしへの そとほり
ひめのりう(*流)なり あはれなるや
うにて つよからす いはゝ
よき(*をうな)の なやめるところ
かことし(*にゝたり) つよからぬは を(*う)
なのなれはなるへし

☆「⑥小野小町は、昔のそとほりひめの歌の流れを、くんでいる。趣があり、激しくない。高貴な女が、病気を抱えているかのようである。激しいところがないのは、女の歌だからだろう。」
なやめる=悩め(悩む・自四・命令形=病気をする)・る(存続の助動詞「り」連体形)。
「そとほりひめ」とは、小町以前の美人の代名詞で、本名は、軽大郎女(かるのおおいらつめ)、古事記によれば、允恭天皇の皇女で、同母兄の木梨軽皇子を愛したため、共に流罪にされその地で死んだという。日本書紀では、允恭天皇の皇后忍坂大中姫の妹で、寵愛された妃であったため、皇后が嫉妬し、藤原宮から河内の茅渟宮(ちぬのみや)に移ったとある。つまり、貴族社会から排斥された敗者の女性なのである。
おもひつゝ ぬれはや 人のえつ
らむ ゆめとしりせは さめさら
 


(58)
ましを 
☆「恋い慕いながら寝たからであろうか、恋しい人が見えたようだ、夢と知っていたなら、覚めないでほしかった。」
局第十二恋二(552)参照。
恋二の冒頭に挙げられている歌で、素直に恋の歌として読める。
いろえて うつろふものは よの
なかの人の こゝろはなにそ
ありける

☆「色に見えないで、移り変わっていくものは、世の中の人の花のような心である。」
局第十五恋五(797)参照。
こゝろのはな=情愛の花のような移ろいやすさ、情愛の言葉。
一般的には、このように解釈されているが、「いろみえて」が、「色見えて」と「色見えで」と肯定と否定に解釈できるので、恋多き作者ならではの、鋭い男へのまなざしとみた。
「顔色に現れないで(恋人に逢っているのに)変わっていくものは、恋の世界の男の情愛の言葉ですねえ。」
わひぬれは (*身)をうきくさの ね
をたえて さそふみつあらは 
いなむとそ おもふ

☆「侘しく思い暮らしているので、根なしの浮草のような私には恋人はなく、世に誘ってくれる水(人)があれば、行ってしまおうと思う。」
巻第十八雑下(938)参照。
これが通説であるが、
いなむ=往な(往ぬ・ナ変・未然形)・む、否む(断る)。
さそふ=誘ふ、さ(副詞・そのように)・添ふ(結婚する)。
「我が身は辛く、浮草のように根をなくし、共寝もせず、ずっと寂しく暮らしているので、そのような結婚話があったところで、お断りしようと思います。」
女の歌は強くないと言った貫之が、この歌を取り上げたもうひとつの理由、「いやいやどうして、強い面も彼女は持っています」と言いたかったのかもしれない。
以上、二首の「みえて」、「たえて」ともに下二の動詞の未然、連用同形を用いて、肯定にも否定にも取れる掛詞として、巧みな作者の意図を、貫之は読み取っている。
そとほりひめの
わかせこか くへきよひなり さゝかに
のくもの ふるまゐ(*ひ) かねてし
るしも

☆「そとほりひめの歌、私の夫がきっと来るはずの晩である、蜘蛛の様子で前もって、はっきりわかっているのです。」
墨滅歌巻第一四(1110)(この元永本古今集にはないが、伊達本にある)。
わかせこかくへき=我が背子・が(格助詞)来べき、かく(恋しく思う)べき。
ささがにの=蜘蛛、糸などに掛かる枕詞。
ふるまゐ=振舞い、古・妻(め→ま)・居(=皇后の許にいること)。「ひ」ではなく、「ゐ」の表現である必要があるのだ。
しるしも=著し・も、知る・しも(強調の副助詞)。
「私の夫が、妻問にくるはずの晩である、蜘蛛は、彼が皇后の許にいることを、はっきりと知っている(やって来ないのは残念だ)。」
小町と共に、成就しない恋を嘆いている。允恭天皇を茅渟宮で待ち続けた作者の気持ちであろう。
おほともの くろぬしは そのさま 
いやし いはゝ たきゝおへる 山
の 花のかけに やすめるかことし
 
☆「⑥大伴黒主の歌は、姿(歌としての題材)が下品、また、(内容的には)癒しでもある。言うなれば、薪を背に負っている木こりが、花の陰に休んでいるようなものである(木こり自身は、見苦しいが、花影に休む姿は、ほっと和ませる趣がある)。」
いやし=形容詞・卑し(見苦しい、下品)、名詞・癒し。
貫之は、黒主の巧みな言葉に潜む「下品」を彼の歌にみているのであろう。それと共に、花の下で憩う木こりの、木こり自身の「癒し」か、それを見た貫之が「癒し」を感じたか、どちらのかわからないが、「癒し」を、そっと、掛詞に忍ばせているとみた。


(60)
おもひいてゝ こひしきときは 
はつかりの なき(*て)わたると [も] 人
(*は)しらなむ(*すや)

☆「思い出し恋しい時は、初雁のように、あなたへの恋文を持って、歩き回るとも、(恋しいことを)あの人には、知ってほしい。」
局第十四恋四(735)参照。本文では、「人・の→は」である。
ここでは、詞書がなく、「さま癒し」に詠み解いてみた。
こひしき=恋しき、乞い・しき(求め上からおさえる)。
とき=時、伽(寝所の相手をつとめる女)。
はつかり=初雁、初狩(許)(初めての女との交情)。
なき=鳴き、泣き。
とも=接続助詞…であるとしても、それにしても。
人の=男を(の=格助詞の連用格…を)。
しらなむ=知ら(男女の交際をする)・なむ(終助詞・相手に…してほしい)
「思い出してください、あの愛しい夜のお相手の女よ、初めての男との経験で、静かにお相手をしても(辛くて泣き続けても)、男との交情をしてほしい。」
「はつかりの」の「の」は、同格の、また、「人の」の「の」は、対象となるものを示す連用格の格助詞。本文では、「人の」は「人は」として、強調の係助詞にしている。「ときは」の「は」は、係助詞、感動・強調の終助詞でもある。
作者は、共寝した女に、「もしも、嫌な男だったとしても、私との交情を思い出して、男と付き合ってやれ」といっている。
貫之の黒主評に従い、掛詞を探してみたが、デカダンの男の痴話であり「さま卑し」ではあるが、そこには、何がしかの作者の優しさがあり、それを、男の貫之は、「癒し」と取ったのではないか。
かゝみ山 いさたちよりて 
ゆかむ としへぬるは おいや
しぬると

☆「鏡山にさあ、立ち寄って鏡に映る姿をみてゆこう、年を取った身は、すっかり老いてしまったことであろう。」
局第十七雑上(899)参照。
おいや=(感)おや おお、老いや。
「(基経においては)年老いた身では、おお(もう老い)死んでしまったかなと思って、不平を言わないで、我が君(宇多天皇)のような(同じ思いを映し持つ)鏡山を頼りにして会いにいこう。」
作者は、「鏡」を視覚的にではなく、心象的に捉え、「同感」の意味にしている。
基経を密殺した宇多天皇-(272)参照-に、歓喜し、貫之らにとって、吾意を得た主人となったのであり、そこに「癒し」を得たのではないだろうか。
貫之は、作者のこれらの歌を「いやし」の掛詞のふたつの意味に理解している。前歌は、デカダンの世界、この歌も人の死にまつわる争い事と、事柄は、歌にするには、「卑し(下品)」であるが、内容的には、貫之は、満足する「癒し」であったということなのだろう。
このほかの ひとゝゝ そのきこ
ゆる のへに おふるかつらの は(*ひ)
ひろこり はやしに しけき
このはのことし(*くに) おほ(*か)れと 
とのみおもひて そのさま し

☆「その他の人々で、有名な人は多い。野辺に生えるつる草が、広がり、林の木の葉のように、つまり、言葉が多いので、歌として愛しているが、歌の姿をわかっていないに違いない。」
定家は、「おほけれと」を「おほかれと」と校訂している。
おほし=多しの已然形で「多いので」の意に貫之は使っている。しかし、定家は、これを、シク活用「おほかれと」と命令形に替えている。「…林の木の葉のように、多くあれと望み、歌として愛しているが…」と微妙に意味が変わってくる。これは、「おほけれと」が漢文訓読であるとして、和文のシク活用に直したのであろう。かなはできても、その用法は、漢文調のものが多く、和文への親和性が増した定家の時代の要求であったのである。。    
らぬなるへし かゝるに いま す(*へ)                              
らきの あめのした [を] しろしめ
とき(*こと) よつのつゝき(*時) こゝの [つの] 
 


(62・古今撰集―編纂の経緯)
かへりになむなりぬる あまね
☆「しかし、今帝(醍醐天皇)が即位されて、四季が九回になった。」
つまり、醍醐天皇即位から、九年経たということで、九〇六年のこと。
き おほむうつくしみの なみ
やしまのほかまて なかれ
ひろき (*おほむ)めくみのかけ つくは
やまのふもとよりも しけく
おはしまして よろつのまつり
ことを きこしめすいとま もろ〵
のことを すてたまはぬあま
りに いにしへのことをも わ
すれし ふりにしことをも
おこしいてたまふとて いま

☆おこしいづ=再び盛んにし始める。
筑波山=常陸の国(茨城県)にある、君主の恩恵を賛美するたとえに用いられる。
「隅々まで行き渡った御慈しみの波は、八島の国の外まで流れ、広い御恵みは、筑波山のふもとよりも多くおありになって、政務万事をお治めになる余暇にも、諸々のことをお捨てにならない上に、昔のこともを忘れまい、古くなった歌も再興なさると言って」
は(*も)みそなはし のちのよ にも 
☆みそなはし=見行ふ(=みそなはす・連用形、「見る」の上代尊敬語)御覧になる。


(64)
つたはれとて 延喜五年四月
十八日に 大内記 紀友則 御書所預(*のところのあつかり) 紀貫之
前甲斐
(*さきのかひの)さう官 (*おふし)かうちの躬恒
左衛門(*の)府生 (*みふの)忠岑等におほせ
られて 万葉集(*えうしふ)にいらぬ(*ふるき)歌 [と
もふるき] みつからのをも たて
まつら(*しめ)たま(*ひてなむ) それかなかに

☆「今は、御覧になり、後にも伝わるようにと、延喜五年四月十八日に、大内記紀友則、御書所預紀貫之、前甲斐小官凡河内躬恒、左衛門府生忠岑らに命じられ(たので)、万葉集に入っていない歌と共に、編者自ら過去に詠んだ歌を献上させていただきます。」
[も] をかさすより はしめて ほと
ゝきすを きゝ もみちを ゝ(*お)り 
ゆきるに いたるまて また
かめにつけて きみをおもひ 人
を(*も)いは(*ひ) あきはき なつくさ
て つまをこひ あふさか(*山)にいた
 


(66)
りて たむけをいのり(*あるは) はる
なつあきふゆにもいらぬ く
さゝゝの (*をなむ) えらせける
すへて [歌] 千(*うた) 廿巻(*はたまき) つけ
て 古今和歌集と云 かく このた
                                   
☆「(万葉集と同じように)その(古今集の)中にも、『梅をかざす』春歌より始まり、『ほととぎすの声を聞く』夏歌、『紅葉の枝を折る』秋歌、『雪を見る』冬歌に至るまでの四季歌があり、鶴亀につけて、御主人様を愛しく想い、長寿を祝う賀歌、秋萩、夏草を見て伴侶を恋しく想う恋歌、逢坂に(見送りに)行っては旅の安全を祈る羇旅歌、四季にも入らないさまざまな雑歌を選ばせになった。全部で千首、二十巻で、名付けて古今和歌集という。」


(67・撰集後抱負―編纂できたことへの喜びと期待)
ひ あつめえらはれて 山した
みつの たえすはまの まさこの(*かす) お
ほくつもりぬれは いまは 明日
か(か) はの になるうらみもき

Cf.「か」脱字、「明日」の「日」を「か」と再び読んでいる。
☆「このように、このたび集め選ばれた歌は、山の湧き水の如く絶えず、浜の砂の如く多く集まったのだが、翻って非難されるような噂はない。」
こえす さゝれいしの いはほと
なる よろこひのみそ あるへき (*それまくらことは)
はるはなにほ(*ひ) すくなくして
       
Cf.脱字「ひ」、誤解で、「にほひ」ではなく「ほ=穂」の意。
「春の花に、穂すくなくして」と読めて、つまり、「春の昇進の時期に、実りがなくて(位も上がらず)」と、位の低さを嘆いているのである。
むなしきのみ [して] あき (*の)


(68)
なかきをかこてれは かつは
☆「小石が岩になる喜びのみあるというべきだ。春の昇進の時期に実りの穂が少なくて、はかない名ばかりで、秋の夜長を口実にして、」
ひとのみゝに おそり かつは
こゝろに はちおもへと [も]
たなひくゝもの たちゐ なく
しかのおきふしは つらゆき

☆「人のうわさを恐れ、また、歌の情趣に適わず恥かしく思うのだが、たなびく雲のように浮かぶ不安や、鹿の鳴くような侘しい生活があっても、貫之が」
か このに おなしく むまれて
このことの ときに あへるを なむ
よろこひぬる 人なくなりに
たれと 歌の(*こと)とゝまれるかな た

☆「この世に同じく生まれて、編集者として他の三人に出会ったことを喜んでいる。人丸(友則のこと)は亡くなったが、歌は残されているのである、うれしいことだ。」
とひ ときうつり ことさり たの
しひかなしひ ゆきかふとも
こののもし(あるをや)あをやきの いと
 


(70)
Cf.脱字「あるをや」、「阿をや」の「を」は、二画目までが「る」によめる。「この歌のもしあるをや あをやきの…」、四字の掛字「あるをや」。複数の文字にわたる掛字は、「秋萩帖」にもみえる(解読済)。
☆「たとえ時が移り、そのようであって喜び悲しみ繰り返すとも、この歌の文字は、青柳の枝の糸のように絶えず」
[の] たえす まつのはの ちりうせす
して まさきのかつら なかく
つ(た)はり とりのあと ひさし(*く)

Cf.脱字「た」、「は・者」の左側が「た・多」と読める掛字。
とゝまりな(*れら)は のさまを(*も)し
り ことの心をえたら(*む) ひと
おほそらのつきを るかこ
とくに いにしへを あふきて
いまを こひさらめかも

☆「松の葉のように、落葉せず、まさきのつるが長く伝うように後世に残り、文字が(自らが書いた文字を謙遜して悪筆ともとれる『とりのあと』と表現している)末長く残ったならば、歌の姿を知り、歌の情趣を理解するような人は、空の月を見るように、昔の歌(万葉集)を仰ぎ見て、この古今集を慕わないであろうか。きっと、慕うであろう。」



古語辞典と歴史本とを参考に、ひたすら掛詞を探して、解読を試みた。すると、自分でも、あっと驚く、世界がそこに広がっていたことにわくわくしている。
古今集は、女文字と呼ばれた平かなが、生まれた揺籃期、醍醐天皇勅撰で、基経の息子・左大臣時平、右大臣源光の下で編纂された。原本は、失われており、元永本古今集は、書写年が一一二〇年とわかる最古の完本である。
まだ、定家の校訂の手が入らない、より原本に近いと推測される唯一の一級資料の完本である。その原本がどのような書き方であったのか、垣間見ることができるのである。脱字、衍字とされる書き方は、その都度、説明しているように、脱字などではなく、重ね字など能書の工夫の跡であり、万葉仮名から平かなに移行する過渡期にあたる書き方であろう。
伊達本は、藤原定家が、当時すでにわかりにくくなっていた「古今集」を、わかりやすく校訂したものである。掛詞などで多義にとれたり、漢文調だった言葉を、大和言葉にあった文脈にして、私たちが今使っている日本語の原型を彼が、作っていったのである。彼の功績は横において、古今集を、貫之ら編者がどういう意味を意図して作ったのかを、ひとつひとつの歌をひもときながら、解読していきたいと思う。

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