貫之の心・私の元永本古今和歌集

一味違った古今集の解読を試みたものです。
抒情詩として読まれてきましたが、「掛詞」をキーワードに解読してみると、政治的敗者の叙事詩が現れてきました。その一部、かな序だけでも鑑賞していただけたらと思います。

(9)複数文字の脱字-2 秋萩帖の場合

秋萩帖には、小野道風筆とされる、48首の和歌が裏紙に書かれており、その内、17首に脱字、衍字がある。三割に「書き間違い」のある、正に「書写した者」のおっちょこちょいぶりが、よく表れた「珍書」?とされている(のだろうか)。古今の書家などにも、草かなのお手本とされ、国宝である。


秋萩帖のこの複数文字の脱字のように、元永本古今集だけではなく、他の書写においてもみいだされることは、もちろん、間違いではなく、広く能書の間で書写テクニックとして認知されていたということであろう。読む人と書く人が、ほぼ同数であると考えれば、脱字があっても掛字として、読解されていたということである。既存の万葉仮名と、新しく編み出された平かなの混在した時代に、能書が工夫した、省エネ書写テクニックと私はみている。ここでは、文字通りの意味を解説し、歌の真意まで立ち入らない。

                    

 また、私の臨書した脱字の文節部分の写真図をみてほしい。


これは、秋萩帖9番目の歌で、
 (9)萬都能弊耳之毛 能散武計禮者許牟也 東堂能無餘己所於保 氣禮
  (まつのへにしも のさむけれはこむや とたのむよこそおほ けれ)
というもので、第一句から、二句に当たる万葉仮名の部分を臨書してみた。


「松の上に降りる霜のように寒いので、来るだろうと心待ちにする夜が多いことよ。」
という程の意味で、このままでも、意味は通るが、語数が合わない。二句が「しもの」だけになり、四字足りない。


一句目の最後の二文字の「弊耳」の草書体は、「弊」は、「ゐ・為」と「た・太」が、見える。正確には、「た・太」の「、」がないが。そして、「耳」は、入筆が強く、これで、「た・太」の最後の「、」を書いたつもりなのかもしれない。そして、二画目で途切れ、「て」と書き、新たに三画目が、「し・之」に見える。
一句は六字で、「まつのうへに」と書き、「へに」に当たる「弊耳」を分解して、「ゐた(弊)てし(耳)」と上にもどって読ませていると考えられる。
つまり、「まつのうへに  ゐたてししもの さむけれは こむやとたのむ よこそおほけれ」と読んでいるとみた。


ゐたてし=居(居る・ワ上一連用形)・立て(他下二連用形だが、自四の「座ったり、立ったりする」の意に取らせている)・し(回想の助動詞「き」連体形)。
こむ=来む、込む(他下二・気持ちを胸の内にしまう)。
おほし=多し(形シ)、思し(形シク・こうあってほしいと思う)。ともに已然形は「おほけれ」。


「(不安になって)座ったり立ったりして待つ上に、松の上に降りる霜のように寒いので、来るだろうと心待ちにする夜が多く、来てほしいことです。」
この掛字が現れて、「まつ」の「待つ」と「松」の掛詞が見えて、今か今かとそわそわしながら、待つ様子が理解できる。また、「うへ」も物理的な位置の「上」と、物事に心理的に、負担になることが加わる意を添えて「その上」という意味の掛詞となっている。


草かなの万葉仮名の中に平かなを、能書は見ている。これも、万葉仮名から平かなへ移行する混在時期に、万葉仮名の平かなによる字形分解が行われているともみえる。

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