貫之の心・私の元永本古今和歌集

一味違った古今集の解読を試みたものです。
抒情詩として読まれてきましたが、「掛詞」をキーワードに解読してみると、政治的敗者の叙事詩が現れてきました。その一部、かな序だけでも鑑賞していただけたらと思います。

(4)万葉集成立は、809年。

二歌聖論を説明したので、その中で本文参照という形だけで、そこでは説明されていない万葉集の公表された時期を、809年11月(大同4年10月の意)とした根拠を説明しよう。


本文(997)
貞観御時 万葉集はいつ許(ばかり)つくれるそと 問給けれは  文室ありすゑ
  十月しくれふりおける ならの葉の 名におふ宮の ふる事そこれ


詞書のある通り、清和天皇が「いつ万葉集はできたか」と尋ねて、ありすゑが答えた歌である。
従来のように、
「十月の時雨が降ったナラの葉で有名な宮(=平城天皇)の古い歌集であります。」
と説明しても、「いつ」には、答えにはなっていない。


しくれ=時雨、四暮れ(=4年)。
    つまり、平城天皇期では、大同4年(809年)しかない。
ふりおく=降り置く(降り下りる)、経り置く(時間が立ち隔てる)。
ならのは=奈良派。
名におふ=有名な。
宮=皇族の尊称。
ならの葉の名におふ宮=平城天皇のこと。
ふる事=古事(昔の詩歌、史書)、振る(他四連体形・設ける、作る)言(和歌)。


「大同4年10月の時雨の降る、出来上がってから時の経った頃、奈良派で有名な平城天皇が、作った昔の歌集がそれです。」


ありすゑは、きちんと年月を答えている。大伴家持が編纂した「万葉集」は、できていたが、彼の存命中は、公にされなかった。桓武天皇が、長岡京に遷都しようと、その造営中、その責任者の藤原種継が暗殺され、事件一か月前に没していたにもかかわらず、家持も連座し、犯人扱いにされたからである。桓武天皇は、犯人とみなされた家持の編纂した歌集を、認め公表するはずがない。


つまり、桓武天皇期にこの歌集が、世に出ていたことは考えられないのである。出るのは当然、彼の死後である。つまり、平城天皇期になって以後ということなのだ。
この大同4年4月、平城天皇は、嵯峨天皇に譲位し、太上天皇になり、12月には、平安京から平城京に引っ越している。
この年の10月に、公表されたということはどう解釈すればいいだろうか。
天皇の位は嵯峨に譲ったが、まだ、平安京におり、皇太子は、平城の息子高岳親王が立てられていた。
嵯峨天皇の御代となったが、公表の発案は、平城天皇であり、この時期、平城派である作者は、まだ彼の時代、平城天皇の御代と取ったのである。もちろん、一般的には、既に嵯峨天皇の御代である。


作者の文室氏は、天武天皇系の子孫で、天智系の桓武天皇に対しては、皇位争奪の敗者の氏族に属しており、家持に対して、その境遇に同情の親近感を持っていたであろう。

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