貫之の心・私の元永本古今和歌集

一味違った古今集の解読を試みたものです。
抒情詩として読まれてきましたが、「掛詞」をキーワードに解読してみると、政治的敗者の叙事詩が現れてきました。その一部、かな序だけでも鑑賞していただけたらと思います。

(17)早良親王は、井上内親王の子?

元永本古今和歌集(254)の代わりに、(1118)が掲載されている。(253)は、家持の死を、(255)は、藤原氏北家の隆盛の自負を詠っている歌の間に挿入されたこの歌から、早良親王が、井上内親王の長男ではないかと思われたので、説明したい。


 (1118)わかゝとの わさたのいねも からなくに またきうつろふ かむなひのもり


わかゝとの=王家(光仁天皇)・門(一族)・の。
わさたのいねも=わさ(早良親王の暗喩)・た(他)のいね(稗のこと、稗田親王の暗
     喩)・も。
からなくに=韓・なくに。
かむなひのもり=かむ(桓武天皇の暗喩)・なひ(靡くの語幹、服従する)・の・守り。
     式家藤原百川の暗喩。
  
「光仁天皇の一族の早良親王も、稗田親王も、母親は、百済出身ではないので、早くに(殺されて)死んでしまったことよ、山部親王に服従する百川のために。」


この歌からわかるのは、早良親王が桓武天皇の実の弟ではないということ。桓武の母は、百済系の高野新笠であり、早良親王の母は、その韓ではないというのだ。

北畠親房「神皇正統記」にも、澤良(早良)親王は、井上内親王の子であるという記述がある。補注には、他戸皇子の間違いと、校訂されている。果たして、親房は間違えて書いているのか?


「…光仁即位[770年、61才のころ]のはじめ井上の内親王(聖武の御女)をもて皇后とす 彼所生の皇子澤良の親王 太子に立給き しかるを百川朝臣 此天皇にうけつがしめたてまつらんと心ざして 又はかりことをめぐらし 皇后をよび太子をすてて つゐに皇太子にすへたてまつりき その時しばらく不許なりけれ 40日まで殿の前に立て申けりとぞ たぐひなき忠烈の臣也けるにや 皇后 前太子せめられてうせ給にき 怨霊をやすめられんためにや 太子はのちに追号ありて崇道天皇と申…」 (神皇正統記 岩波文庫p.94)


「…皇后をよび太子をすてて」を「皇后及び太子を捨てて(井上内親王と早良親王を見捨てて)」と解釈しているが、はかりごとをめぐらしている訳だから、「…皇后を呼び(招待して陥れ)、太子(早良親王)を捨てて(捨つ=出家する、出家するように)」、つまり、百川は、井上内親王を招き込んで、早良親王を出家させてしまったと読めないか。


また、「すへたてまつりき」は、「皇・たてまつりき」つまり、「山部親王を立太子しようとした」ということ。


解読すると、
…光仁天皇が即位(770年~781年在位)して、聖武天皇の娘井上内親王を皇后とした。井上内親王所生の澤良親王が立太子された。しかし、式家百川が、この天皇(桓武天皇、当時山部親王)を即位させようと、計略をめぐらして、皇后井上内親王に澤良親王を出家させ(761年、11才ころ)、ついに、(山部親王を)立太子しようとした(773年)。その際、光仁天皇からのお許しがでなくて、40日間、内裏の前に不眠のハンストをして、お願いをしたとか。稀に見る素晴らしい忠義の家来であろう。井上内親王、前の太子の他戸親王は、責任を問われ、亡くなってしまった。また、太子であった早良親王は、その怨念を鎮めるために、追号され、崇道天皇と…


この文から、井上内親王の長男が、早良親王であることが理解でき、そうであれば、立太子されたのも当然であろう。しかし、式家百川は、山部親王を皇位に据えたくて、暗躍し、井上内親王とその息子、他戸親王、早良親王を陥れ、京家浜成の推した尾張王女所生の稗田親王との争いにも、内裏にて40日もハンストをして山部親王の立太子の許しを光仁天皇から得たというのである。親房は、この百川をほめちぎっている。井上内親王、他戸親王は、責めを負って粛清され(775年)、早良親王は種継暗殺を企てた疑いの下、憤死した(785年)。即位すべき早良親王の祟りを(桓武天皇は)恐れて、追号して崇道天皇とした(800年)というのである。


和歌と、歴史書の二つの視点から、共に歴史の事実は照らし出され、親房の記述を安易に「誤り」とすることはできない。

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