貫之の心・私の元永本古今和歌集

一味違った古今集の解読を試みたものです。
抒情詩として読まれてきましたが、「掛詞」をキーワードに解読してみると、政治的敗者の叙事詩が現れてきました。その一部、かな序だけでも鑑賞していただけたらと思います。

(21)定家は校訂し、歌の意図は改ざんされる

現在流布している古今和歌集は、定家の写本した伊達本で、原本のそのままではない。定家は、漢字に支配された万葉集の影響の強い古今集から、積極的に和文としてこなれた歌集へと校訂して、和語の基礎を整えることに力を注いだといえる。


しかし、その反面、貫之らの歌に込めた意図は、その多くは消し去られてしまった。
その一例を、かな序、歌体論⑥いはゐ歌の例として、(33)あたりに出てくる歌で、説明したい。


春日野に わかなつみつゝ よろつよを いはふ心は 神そしるらむ 


巻第7祈 (357)にある歌で、本文には詞書がつく四季の歌の連作の最初の一つ。
詞書には、


内侍のかみの七十の賀 子の▢大将藤原朝臣の四十の賀し侍ける時 四季のゑ かきたるうしろの屏風の歌 春                     素性法師


とある。▢は「右」か「左」かわからないが、二画目までは判るが、どちらなのか判読ができない。定家は、この詞書を、次のように大幅に改ざんしている。


内侍のかみの 右大将ふちはら朝臣の四十の賀 しける時に 四季のゑ かけるうしろの屏風に かきたりけるうた


内侍のかみ=尚侍、内侍司の長官。
大将=左、右近衛大将。


藤原氏で、母が尚侍、70歳で、その息子が左、または右近衛大将、40歳で、同時にその賀をしたというのであるが、定家は、「尚侍であった女の右大将」として、その血縁関係を変えている。定家は、この右大将を藤原定国(867~906没)、内侍のかみを妹の満子(872~937没)と書き換えて、定国の賀のみの歌にしてしまったのだ。母の賀も意図して何かいいたいはずである。それを消されては、作者素性の意図は表せない。
定国の母、宮道列子が尚侍であるという記録はなかったので、定家は、そのように校訂したのかもしれないが、彼女は、907年従三位を受けているから、その可能性はありはしないか。列子は、後に醍醐を生む胤子の誕生物語が「今昔物語」にあり、有名な人。高藤と2歳程歳下とあるから、彼女は、836年頃の生まれで、七十の賀にぴったり合う。素性がそうした世話話を取り上げた可能性もある。尚侍満子をあげれば、当時34歳で、七十の賀は消す必要性があったことがわかる。しかし、作者は、桓武の曾孫であり、政治歌である可能性もある。


元に戻って、判読不明の▢の二画は、それぞれの入筆が、独立しており、「左」と私は判読したい。(343)にある「左右・まで」に見るように、右の二画は、何らかの連綿があるはずで、ここでは、それが見られないから。


そこで、40歳の藤原氏左大将とその母を探すと、基経(836~891没)と乙春(?~?)しかない。賀は、876年ころに行われたのであり、乙春は生きていたのか、尚侍であったかどうかもわからない。(ただ、娘の高子は、陽成の母であるし、後宮では、最高の地位にあったことは想像できる。)そして、政治的には、非常に興味深いネクサスが現れてくる。したたかな基経は、権勢を誇っていた叔父良房の養子になり、昇進をしており、叔(伯)母沢子と仁明天皇の孫娘(人康親王の娘)を妻にしている。仁明天皇が没した時、作者の父は出家し遍照と名乗る。乙春を通じて、基経に何か言い分を持ってもおかしくない。


かすかのゝ=春日(氏神を祀る春日大社があり、藤原氏とは縁が深い)・野の(「ののめ
     く」の「のの」で、はぶりをきかすの意を含める)。
若菜つみつゝ=我が・名(名声)・積み・つゝ。
よろつよ=万世、弱・つ(の)・代。
いはふ心は=祝ふ、位奪ふ(「う」の脱落)・心(状況)。
かみそしる覧=神、長官・ぞ知る、謗る・覧。


「藤原氏が勢力を増し、名声を集めながら、幼帝(陽成天皇)の弱い天皇の位(の実権)を左大将基経が奪う状況を、後宮の上である基経の母乙春が非難しているとか。」


陽成天皇は、876年の時点では、母高子(基経の妹)、摂政基経の後見の下、7歳で即位した形だけの天皇。母高子は、基経が思いのままに陽成を支配することを阻んでいる。以後も、高子と基経の仲は悪く、乙春としても、娘高子の側にいたのではないか。そんな陽成の祖母としての(基経は息子ではあるが養子に出ている)、愛情が周辺の人の心にも共有されたのではないか。基経への嫉妬、ひがみと共に。


長寿を祈る歌の形を取っていても、良房に続く基経の権勢への非難を、乙春に仮託して作者は、詠っているとみた。(乙春を後宮の最高位として「後宮の上」と表現してみた。)
つまり、基経の足元の、妹高子、その母乙春と共に、作者も非難していることは、貫之にとっても、「…これや すこし かなふへからん」と「いはひ歌」になっているというのである。

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