貫之の心・私の元永本古今和歌集

一味違った古今集の解読を試みたものです。
抒情詩として読まれてきましたが、「掛詞」をキーワードに解読してみると、政治的敗者の叙事詩が現れてきました。その一部、かな序だけでも鑑賞していただけたらと思います。

(36)人丸は、従六位上だった。

人丸は、かな序にある通り歌聖として、あがめられたが、六位と官位は低くその生涯は、多くの憶測に満ちている。伊達本では、定家は、彼を「正三位」としている。


(907)には、「此二歌は 或人云 柿下人丸かとそ云伝たる」の添え書きがある。(906)の歌と共に、作者は人丸というのだ。その内容から、彼の官位が現れて来た。


(907)梓弓 礒邊(いそべ)の小松 誰世にか 万代兼て 種を蒔きけむ


「岩の浜辺に小松が生えているが、いつの世に誰が万年をも鑑みて松の種を植えたものであろうか。」


梓弓=「い」に掛かる枕詞。(音読みで)梓宮(しきゅう、天子の陵、天武が没したことを
    暗喩)。
礒邊の小松=いはへのこまつ=汝(い、おまえ、人丸)は上(へ、孝徳天皇)の子末(末っ
    子)。五十(いそ)辺(へ、あたり)の(音読みで)少丞(せうじょう、民部省の
    判官、従六位上にあたる)。


    人丸は、孝徳天皇の末っ子。50歳位の民部省の役人で、「民部」は、律令制八省の
    一つで、「みんぶ、かきべ」と読む。一般的に、姓は地名、職業から与えられて
    おり、ここから由来したとみた。
    「人丸は、孝徳の末っ子。
    50歳ころ、民部省少丞の役人で従六位上の位である」と読める。


    天武も孝徳の子とみられる。母は斉明ではない(219)し、父は舒明ではない
   (万・2798)となると、天皇の子である必要性があるから、孝徳の子とみた。


    
かな序にも「おほきみゝつのくらゐ 柿本の人丸なむ 歌のひしりなりける」とある。ここでは、「正六位」である。この歌が作られた天武没後のころの「従六位上」から、「正六位下」に昇進していることになる。「正六位上」になったかはわからないが、確かに、人丸が作ったのだ。


掛詞で解読すると、
「(私が仕えた)天武天皇が(688年)埋葬された。お前(人丸)は、孝徳の末っ子。50歳位で、民部省の役人で従六位上。誰が世を治めるのか。(相談することなく)すべてに代えて、(鸕野讃良は)武力で(大津皇子に)断念を迫ったのだろう。」


686年天武(55歳)が没した時、人丸は、50歳くらい、従六位上の卑官と詠っている。天武との年の差は約5歳。仮名序p.42で、人丸は、天皇の子だと書かれている。天武とは、同母の
兄弟かわからないが、孝徳の子なのだ。

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