貫之の心・私の元永本古今和歌集

一味違った古今集の解読を試みたものです。
抒情詩として読まれてきましたが、「掛詞」をキーワードに解読してみると、政治的敗者の叙事詩が現れてきました。その一部、かな序だけでも鑑賞していただけたらと思います。

(38)承和の変後の童謡

承和9年(842年)に起きた承和の変は、嵯峨天皇の下で続いた輩行が直系皇位継承に代えられた一大転換期であり、北家良房がその権力を確立した事件である。


続日本後紀承和9年8月13日の項を見てみると、廃太子された恒貞親王が、宮中から淳和院に送り届けられとことが記されている。


「承和9年8月甲戌(13日)参議正躬王を遣わして廃太子(恒貞親王)を淳和院に送り届けた。備前守従四位上紀朝臣長江が院より出迎えた。…之より先、次の童謡が詠われた。


      天には琵琶をそ打つなる
    玉児の裾牽くの坊に
    牛車は善けむや
    辛苣(からちさ)の小苣(おちさ)の華」


森田悌による現代語訳によれば、
「殿上で音楽を奏し楽しんでいる時に、着飾った女子が裾を引いて往来する都城内を、牛車に乗っていくのは快いことだろうか。苦みのする苣のように辛いことだろう。」とある。この歌について、
「有識者は皆、この童謡が真実で、現にそのとおりになっている、と言った。」と続く。


天には=天(淳和上皇のこと)には(二番、淳和次男の恒貞親王)。
琵琶をそ打つなる=批判を僧都(そうづ=かかし、権威や尊敬に欠ける存在の象徴)な
     る。
玉児の裾牽くの坊に=玉児(17歳恒貞親王、15歳道康親王)の裾(末端の家来)牽く
   (他四連体形・ひっぱっていく)・の坊(春宮坊、伴健岑など)、述ばふ(他下二
    終止形・語る)に(推定伝聞の助動詞「なり」連用形)。
牛車は善けむや=憂し娑婆(現世界)善(理にかなった正しいこと)、大人(領主や貴人
     の敬称)しゃ(おのれ、相手をののしっていう語)禅(帝位を譲ること)・消
   (自下二未然形)むや。
辛苣の小苣の華=辛ちしゃ(野菜の名、からし菜?)、空知者(愚か者)・の・落ち(結
    末、粗悪なもの)さ(賛=褒めること、非難)の華(華やかなこと)。


「淳和上皇の次男恒貞親王への批判を(したい)。案山子のように権威のない恒貞親王を担いでひっぱり出す春宮坊健岑だが、情けないことよ、このような現世は、正しいことだったろうか。愚か者健岑たちの結末(流罪の処罰を受けたこと)への賞賛の盛んなことよ。」


承和の変で、仁明天皇が輩行をやめ、直系継承にした際の、良房の言い分である。確かに、淳和は、有力貴族の後ろ盾に欠ける恒貞親王の擁立に不安を抱き、嵯峨上皇に上表している(が、受け入れられることはなかった)。政治的に弱い恒貞親王は、良房には、「案山子」と映るという口実下、道康親王擁立を画策したのである。


この次に、「有識者は、この童謡が真実であり、」と続いて、「于今験之牟」とある。「今において、これを試みる(調べる)なり。」つまり、歌われた当初は、上記のような意味と取っていたが、今一度再考してみると、別な読みができるのではないかと言っているのではないか。


「淳和上皇の次男恒貞親王は、批判を(したい)。案山子のような言いなりになる道康親王をひっばっり出して(皇位に就かせる)と(良房は)語っているそうで、良房殿、おのれ、(恒貞親王への)譲位を消し去ろうとするのか。愚か者良房のひどさに非難が盛んなことよ。」


これが、廃太子された恒貞親王側からの言い分である。権力闘争の中、人々の口からは、あるべき継承の成り行きの変化に両サイドに合った歌が詠まれているとみた。続日本後紀は、良房が奉った勅撰であるから、その不正に対するささやかな抵抗であったのだろう。

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