貫之の心・私の元永本古今和歌集

一味違った古今集の解読を試みたものです。
抒情詩として読まれてきましたが、「掛詞」をキーワードに解読してみると、政治的敗者の叙事詩が現れてきました。その一部、かな序だけでも鑑賞していただけたらと思います。

(42)さくやこのはな

(41)で、百済と新羅との宿命的な争いをみたが、列島への進出と共に起こったことのようだ。もうこの東には、海しかない。しかし、覇権意識の強い彼らは、戦いをやめない。
口承で伝えられていたあの有名な歌は、5C頃王仁が、大鷦鷯尊が即位を3年もしないので不審に思い、詠った歌と仮名序には説明しているが、これも当時の争いを描き出している。


難波津に さくやこのはな 冬こもり いまははるへと さくやこのはな


「難波津にこの梅の花は冬ごもりしているが、今は春とばかりに、咲くのだろうか。」
梅の花が、春を寿ぐように、やっと咲き乱れている様子を思い描いている。
仁徳天皇即位時、異母弟の太子菟道稚郎子は自殺したと、日本書紀にはあるが、誰が信じるというのだろう。


難波津に=難波(なには、大鷦鷯尊の難波宮)図(づ、はかりごと)に。
さくやこのはな=作(さく、作為、くふう)や(感動の間接助詞)許(こ、菟道稚
     郎子のこと、「山城国風土記」に彼の住んでいた地を「許の国」と呼んでい
     る。「難波津」の対句として「許」と居場所で、莬道稚郎子皇子を暗喩してい
     る)の(音読みで)禍(くゎ、災い、不幸)。
冬こもり=(音読みで)同居(とうご=凡夫と聖者がともに住むこと)も離(り)。
いまははるへと=今は春(はる、皇太子)へ(「言ふ」已然形、=いへ)ど。
さくやこのはな=幸く(副詞・無事に)や(疑問の係助詞)権(ごん、次の位、大鷦鷯尊)
     の禍。


「大鷦鷯尊(仁徳天皇)の図り事に、(射殺を)仕組んだのだろうか。菟道稚郎子の不幸よ。凡夫と聖者が一緒にいたのに、別れてしまった。今は、皇太子と言えども、無事であろうか。次の位にいる大鷦鷯尊のなす(射殺の)災いよ。」


百済系ではない王仁は、新羅系菟道稚郎子を心配して詠っており、心配は、現実のものとなり、二人の妹は、ひとりは殺害され、もうひとりは、仁徳の妻になっているが、子はいない。仮名序には、この歌が紹介されて、そこでは、「莬道稚郎子皇子は、射殺された」ことが説明されている。


仁徳天皇は、鳥(=朝)の名前からわかるように、百済系。母が重要な血筋を決定するのである。社会的には、父系だが、実質的経済は、母系であるから、母方が、経済力なり、ブランド力がなければ(プラス計略)、覇権争いには勝てないのである。


「同居」は、日本書紀に、菟道稚郎子の言葉として「・・・聖者は君となり、愚者は臣となるのは古今の通則です・・・」とある。穏やかな古くからの和歌にも、政治歌が詠みこまれている。

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