貫之の心・私の元永本古今和歌集

一味違った古今集の解読を試みたものです。
抒情詩として読まれてきましたが、「掛詞」をキーワードに解読してみると、政治的敗者の叙事詩が現れてきました。その一部、かな序だけでも鑑賞していただけたらと思います。

(48)皇極天皇41歳の子、真人の父は入鹿!

かな序p.18に、皇極天皇が入鹿に犯されて(?)生んだ子が、真人であるということは明白であると読める一節がある(このブログの「かな序」を書いた時は、読めていなかった)。皇極41歳(仮名序p.19、皇極は、亥年生まれとあるから、603年癸亥、推古11年生まれ)入鹿33歳の子ということになる。日本書紀皇極3年(真人の生まれた644年)の項をみてみた。


不思議なことに、皇極天皇にまつわる政治事柄はない。あるのは、謎めいたたとえ話のような記録と謡歌。鎌足の長男真人が生まれたのは、644年、乙巳の変の前年である。真人は、不可解にも、10歳にして出家、入唐して21歳で帰国、3か月後に没している。


流行ったという謡歌3首をみると、ビックリの事実であるようだ。
はろはろに ことそきこゆる しまのやふはら
波魯波魯儞、渠騰曾枳舉喩屢、之麻能野父播羅
「かすかに話声がきこえてくる、島の藪原で。」


はろはろに=遥ろ遥ろに(副詞・はるかに)、四四二(10ヶ月)。カタカナで「ハロ」
     は、口の中にハを書けば「四」になる。こうした数字表記は、他にもある。
ことそきこゆる=子と祚(皇極天皇)聞こゆる。
しまのやふはら=島(頼りになる人、嶋大臣馬子の蘇我氏)の藪腹(膨らんだ腹)、野夫
     (田舎者)はら(ども)、腹(その女性から生まれた子)。


「妊娠した皇極天皇と子の噂が聞こえる。蘇我氏の田舎者どもの子。」


をちかたの あさぬのききし とよもさす われはねしかと ひとそとよもす
烏智可拕能、阿娑努能枳々始、騰余謀作儒、倭例播禰始柯騰、比騰曾騰余謀須。
「(交尾の時)遠方の浅野の雉は、声を立てて鳴かない。私は共寝したが、人(女)は声を上げて騒がしい。」


をちかたの=遠方の、復ち(自上二連用形名詞・若返る)方(皇極天皇)の(感動の終助
     詞…だね)。
あさぬのききし=浅野の雉、麻布(間夫=情夫)の・雉、聞き・し(回想の助動詞「き」
     連体形)。
とよもさす=響もさ(他四未然形・騒がせる)ず、と(接続助詞…とすぐ)余(私、入
     鹿)燃さ(他四未然形)す(使役の助動詞終止形、自動詞化)。
われはねしかと=我は寝しかど、我(入鹿)跳ね(自下二連用形・拒む)しか(回想の助
     動詞「き」已然形)ど。
ひとそとよもす=人ぞ響もす、否と祚(皇極天皇)響もす。


「若返った皇極天皇だね。、情夫(入鹿)は(彼女の濡場の声を)聞いたとたん、私(入鹿)は燃えたよ。私(入鹿)は拒んだが、だめだと皇極天皇は(濡場の声を)あげた。」


情交を仕掛けたのは、皇極だというのだ。エロ話は、風の如く広まる。当時の個人の秘密などない。寝殿造りの大広間に衝立程度のもので仕切っただけで、すぐそばに使用人がいるのだから、性生活の一部始終が、聞かれているのだ。血族による権力闘争だから、誰が誰と寝たかがいつも重要になるというわけだ。


をはやしに われをひきいれて せしひとの おもてもしらす いへもしらすも
烏麼野始儞、倭例烏比岐例底、制始比騰能、於謀提母始羅孺、伊弊母始羅孺母。
「小さな林に私を引き入れて、犯した人の顔も、どこの家の人なのかも知らないね。」


犯人はぼかしているが、皇極天皇が犯されたことは、もう隠してはいない。皇極を、被害者としている。


をはやしに=小林に、伯母(皇極の祖父押坂彦人大兄皇子の妃・糠手姫)野心に。
われをひきいれて=我を引き入れて、我(皇極)誘き(他四連用形・だまして誘う)入れ
        て。
せしひとの=為し(回想の助動詞「き」連体形)人(入鹿)の。
おもてもしらす=面も、面々(おまえたち)知らず。
いへもしらすも=家も知らずも、異変も領ら(他四未然形・統治する)す(上代尊敬の助
     動詞「す」連体形)裳(女の暗喩、糠手姫)。


「おばさんである祖父の妃、糠手姫の野心に(従って)、(皇極は)だまし誘い入れて入鹿と性交。彼は、お前たち(皇極や糠手姫の画策)を知らず、(起こるであろう)政変も統率する糠手姫よ。」


皇極が、糠手姫の野心のために、まんまと入鹿に仕掛けたというのだ、その結果、生まれたのが真人ということだ。糠手姫は、夫押坂彦人大兄皇子が敏達の長男であったにも関わらず、皇位にありつけなかったのが悔しかったのだ(父の敏達の後継は異母シブリンに回り、子の代は皇位を逃している)。実権を握る蘇我氏を標的に策をめぐらし、この後、乙巳の変の画策も彼女が指揮したというのだ。彼女は、その後86歳近くの長寿を全うし、皇極(斉明)よりも長生きし、天智称制を見届けている。


その影に、真人は、皇極と入鹿との子でありながら、父を殺した鎌子の長男として育てられ、10歳にして、唐に島流しにされたと同然。661年に母(皇極、斉明)は没しており、665年、帰国してすぐに殺すことに、鎌子に躊躇はなかったであろう。

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