貫之の心・私の元永本古今和歌集

一味違った古今集の解読を試みたものです。
抒情詩として読まれてきましたが、「掛詞」をキーワードに解読してみると、政治的敗者の叙事詩が現れてきました。その一部、かな序だけでも鑑賞していただけたらと思います。

(49)山上碑の漢文

高崎市の上野三碑が、近年、世界記憶遺産に指定された。この石碑は、7C後半から8Cにつくられたことが、文面からわかる非常に古い貴重な遺物である。


その内、山上碑は、非常に短い漢文とされているので、気づいたことを書いてみたい。
熊倉浩康著「上野三碑を読む」という、私のような初心者にもわかるテキストを読みながら、私が注目している日本語の表記を考えた。


短いので、全文をあげる。
辛己歳集月三日記
佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此
新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児
長利僧母為記定文也 放光寺僧


「681年10月3日に記す
佐野屯倉を定め、賜はる健守命の孫黒売刀自此れを
新川臣の児、斯多々宿祢の孫、大児臣娶り生む児
長利の僧母の為に記し定むる文なり、放光寺僧。」


解説されているように、漢字で書かれた最古の日本語だ。
「(佐野屯倉をまかされた健守命の子孫の)女を、
(新川臣の児・斯多々宿祢の子孫の)大児臣が娶り生んだ児。
長利の僧母の為に記し定める文です。方光寺僧。」


この本の解説を読んだ時は、長利という僧が母の為に石碑を建てたということか、と思っていた。父の為に建てたのではないんだ?と位には、ひっかかっていた。男尊女卑の儒教文化の中で、女性を顕彰する碑は考えられないから。


しかし、梅原猛著「塔」(1976)の中に、「長利」の二字をみつけて、はっとした。群馬県多野郡誌に伝わる羊太夫伝説に、その名があった。722年羊討伐において、安芸国の広島宿祢長利が羊を自害に追い込んだというのだ。その時、長利は、羊の凡人にあらざるを思い、その屍を池村に葬り、祠を建てたという。


この碑は、まったくの漢文ではなく、漢字と万葉仮名で書かれているとすれば、漢字がそのまま、その意味する語とは限らない。つまり、10月を「集(しふ)月」(漢文であれば「十月」)と表記しているように、万葉仮名まじりの漢文とみることもできる。


僧=贈
母=墓


そうして解釈してみると、
「女を大児臣が娶り生んだ児(羊)に、長利が贈る墓の為に記し定める文です。方光寺僧。」となり、この伝説が理解できる。


出自を挙げて、羊の家柄を明らかにし、葬られて20年経て、長利が葬った墓に碑銘を地元方光寺の僧が顕彰するために建てたのではないか。
山上碑の一行目の681年は、60年下った741年になる。羊が自害して20年も経て、ほとぼりの醒めた聖武天皇の治世に、地元の僧がささやかな供養をしたとみえる。名は、伏せたまま、皆が知る人であったのだろう。石碑といえば、漢文と決まっていた当時、使い始められていた万葉仮名を忍ばせ使った表記は、地元の人々の想いを伝えようとした僧の、熱い想いでもあったように思える。正史の裏にある歴史を残そうとする敗者が、言葉の多義性を利用している。万葉集、古今集につながる言葉づかいがみえる。

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