貫之の心・私の元永本古今和歌集

一味違った古今集の解読を試みたものです。
抒情詩として読まれてきましたが、「掛詞」をキーワードに解読してみると、政治的敗者の叙事詩が現れてきました。その一部、かな序だけでも鑑賞していただけたらと思います。

(51)芭蕉ルネサンス-2

前回「芭蕉ルネサンス」での妄想の続きをしてみた。


 旅に病で 夢は枯野を かけ巡る  1694年「笈日記」
この句は、辞世の句ともいわれ、芭蕉が死の四日前に詠んだもの。


私は、一句「病で」に引っかかる。「やんで」と読まれるが何故、「病み(自四連用形)」としなかったのだろうか。その方が、定型に収まるし、書き言葉として美しいと思うのだ。
古今集にもあるのだが、掛詞を入れんがために、こうした引っかかる文にせざるを得ないことが起こる。だから、芭蕉もそれを狙っていたのではないかと疑うのだ。


旅に病で=旅に(時に)(音読みで)兵(武士)・で(次に続く)。
夢は枯野を=(前から続いて)天(将軍、ご主人様)は枯る(計る=企てる、だます)野(諸国)を。
かけ巡る=駆け(敵陣に駆け入ること)・巡る、目眩る(目がくらむ)。


「(私は)時に武士になりすまし…ご主人様は企てる…諸国を偵察し回った、目のくらむようなことよ。」


芭蕉は、北村季吟に師事した藤堂良忠に仕えた。季吟は、幕府お抱えの歌学者。芭蕉は1677年、水戸藩邸の防火用水の土木工事を請け負うことに携わっているから、水戸藩をパトロンに得たことは間違いない。人事、算盤、指揮能力を買われたのだ。水戸は、東北奥州を見張るための前線基地となり、幕府にとって重要な御三家。
そこで、隠密を東北に繰り出すことは、幕府にとって必要なこと。芭蕉にその命が下ったとすれば、容易に理解できるではないか。


隠密なので、俳句に掛詞を用いて、古今時代のように、2つの意味を持たせる必要性があったとみる。情報量は、和歌に比べ少なくなるが、隠密という秘匿の二面性に芭蕉は、必然的に向き合い、古今集の言語操作「掛詞」に注目したのではないか。

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