貫之の心・私の元永本古今和歌集

一味違った古今集の解読を試みたものです。
抒情詩として読まれてきましたが、「掛詞」をキーワードに解読してみると、政治的敗者の叙事詩が現れてきました。その一部、かな序だけでも鑑賞していただけたらと思います。

(53)百済と新羅 -2

光仁は、百済系の血筋を式家百川らの画策を得て、皇統を新羅系から奪還することができた。しかし、まだ、聖武の血筋を引く者がおり、桓武がその最後の血族を粛清して、一応百済系王朝を完成することができた。最後の犠牲者は、早良親王で、桓武の弟とされるが、(1118)に、井上内親王の子(長男)と詠われている。本ブログ(17)早良親王は井上内親王の子? 参照。


この奪還劇は、天武の妃に天智の娘鸕野讃良(持統)がなることで開始された。壮大な百済系王朝の奪還作戦の始まり。後年、源頼朝の妻政子が、源氏から、実家北条氏に政権を奪ったのも同じやり方だ。共通しているのは、政権奪還のための徹底的粛清。妃として入った朝廷(幕府)の実権は、最大限に利用し、天武系血族(源氏)を断絶させ、実力行使により政権を乗っ取るのだ。


桓武は、最後の聖武の孫酒人内親王を妃にしているが、最後には、彼女に仇打ちに合って殺されているとみる(205)。母井上内親王、シブリン他戸親王(775年)、早良親王(785年)を殺されているのだから、心安らかに、桓武の「妃」に収まったとは考えられない。桓武との間に、朝原内親王を生んでいるが、結局は、37歳で亡くしている。娘の死をたいそう嘆いたとあるが、その悲しみは、複雑なものであったに違いない。憎き桓武の子を、酒人内親王は自らの意思で殺した可能性もあるとみる。母もシブリンも殺した男桓武の子なのだから。または、平城は梅毒で没している(157)から、平城の妃であった朝原内親王は、梅毒を移され、病死したのかも。


儒教の教えから言えば、酒人内親王にとって、母井上内親王は、主君桓武より上位。その教えからも、仇討ちは当然となる。そして、はじめて中央集権体制を作った天武のような新羅系(非朝=飛鳥)天皇が、権威ある中国文化の継承者であるとみたに違いない。


正に、朝鮮半島での抗争を、列島でも繰り広げているとみえる。そのように、血族間の争いとしてみると、非常に理解しやすいのだ。

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