貫之の心・私の元永本古今和歌集

一味違った古今集の解読を試みたものです。
抒情詩として読まれてきましたが、「掛詞」をキーワードに解読してみると、政治的敗者の叙事詩が現れてきました。その一部、かな序だけでも鑑賞していただけたらと思います。

(56)名前考-2

元永本古今集(270)の作者名が「きのともひら」となっている。伊達本では、「きのとものり」と訂正されている。人の名前を間違えることはまずない。明らかに、この名には何か仕掛けがあるとみるのが、自然であろう。


その前に、歌を解読してみよう。
(270)露なから をりてかささむ きくの花 おいせぬあきの ひさしかるへく


「露ながら折りて かざさむ菊の花 老いせぬ吾君の久しかるべく」という意である。
しかし、次のようにも解釈できる。


あらは(露)ながら折りて 彼(かの地)指さむ 鞠(蹴鞠)の禍 恩沃せぬ吾君の 非さ(そいつ)叱るべく


「見え透いたことながら、(命に)従い大宰府へ行かれては。お遊びの災いです。(道真には世話になっているのにその)恩も注がれない醍醐天皇の非道については、そいつ(醍醐天皇)を叱らないといけないね。」


昌泰の変で、道真が左遷されたのは、見え透いた粛清だったといっている。時平が讒言して醍醐をだまして、道真を左遷したとされるが、実際は、醍醐自身の意思であり、彼の起こした事件であるということだ。宇多は、藤原系の醍醐ではなく、斉世に承継させたかったのだから。確執があったのだ。
そのことをよく理解している作者は、紀氏にとっても理解者だった…


そう、「きのともひら」は「紀氏の友、時平」の意とみた。
時平は、後年歌舞伎でも悪魔のような悪者に仕立て上げられているが、実際は違って、道真に通じる紀氏には好意的だったのだ。
後撰集(1077)には、
   紀友則まだ官たまはらざりける時、事のついで侍て、「年はいくら許にかなりぬる」   
   と問ひ侍ければ、「四十余になんなりぬる」と申しければ
   今までに などかは花の 咲かずして 四十年あまり 年ぎりはする
という時平の歌があることからも、その同情はくみ取れる。


名前をあっさりと、訂正されては、本来の歌意の浮かぶ瀬はない。

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