貫之の心・私の元永本古今和歌集

一味違った古今集の解読を試みたものです。
抒情詩として読まれてきましたが、「掛詞」をキーワードに解読してみると、政治的敗者の叙事詩が現れてきました。その一部、かな序だけでも鑑賞していただけたらと思います。

(66)紫式部も二重読み

古今集(909年)に続く、後撰和歌集(935年)、拾遺和歌集(984年)あたりまで、古今調は見られる。古今集の時代に生きた歌人の歌が盛られている。つまり、古今集に語られたように、正史にはない歴史が語られているとみると、この分野の再解読すべき歌の地平線が洋々として広がっていることになる。


紫式部は11世紀に活躍した歌人。二重読みできる歌を詠んでいる。例えば、彼女が、源氏物語を書く前、夫藤原宣孝を結婚後三年で、亡くした時に詠んだ歌。


見し人の けふりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦
(夫婦生活をしてきた人が、火葬の煙となった晩から、(夫の)名前の懐かしいことよ。塩を焼く浜の煙よ。)
塩釜の浦に立ち上る煙と、夫の火葬の煙を重ねて詠んでいる。


夕べより=ゆ(…から)不弁(ふべん、物事が思うようにならないこと、貧しいさま)よ
     り。
名ぞむつましき=なぞ務(む、仕事)つ(の)増しき。
塩釜の浦=(音読みで)閻浮(えんぶ、現世)の符(ふ、巡り合わせ、運)。


「夫が死んでしまってから、思うようにならず、どうして仕事が増えてしまったのか。現世の巡り合わせよ。」


紫式部は、夫に死なれ、貧乏になったことを憂えている。夫の収入が得られなくなり、仕事が増えたというのだ。仕事とは、はじめは、宮中での雑用係りであろうか。運の悪さを嘆いている。


後に源氏物語を書く訳だが、この物語も、二重読みができ、この時代の歴史が暴かれているのだろうか。全く手をつけていないので何とも言えないが。
日本古典文学を代表すると言われるが、本当のところ、私には理解できない。別に主題がある訳でもなく、色恋ざたの連続で、登場する男にろくなものがいない。世界に紹介するにはあまりにも恥ずかしい男女関係。日本の誇れる感性は、平家物語、枕草子、方丈記など他にあるではないか。
よりによって、女性週刊誌の連載記事のようなゴシップ集に注目を集めることはない。


しかし、これが、もう一つの歴史であれば、素晴らしい書になろう。

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