貫之の心・私の元永本古今和歌集

一味違った古今集の解読を試みたものです。
抒情詩として読まれてきましたが、「掛詞」をキーワードに解読してみると、政治的敗者の叙事詩が現れてきました。その一部、かな序だけでも鑑賞していただけたらと思います。

(67)高子と善祐法師との情事のうそ

高子は宇多期896年、東光寺座主善祐と密通したという疑いをかけられ、皇太后を外される。善祐は、伊豆流罪になった。宇多による高子の粛清だ。


拾遺和歌集巻第十五恋五(925)
善祐法師なかされて侍ける時母のいひ津かはしける
  なく涙 よはみなう見登 なりなゝん おなしなきさに なかれよるへく
つまり、
善祐法師が流罪になった時、彼の母が言ったことを送って来た。
  泣く涙 世は皆海と なりななん 同じ渚に 流れ寄るべく
「流す涙で、世の中が皆海になってほしい、(息子と)同じ海岸に流れ着いて(息子と)会えるように。」
親子の情に訴えて、息子を嘆く母の歌としている。


また、別の解釈をすれば、
善祐法師=善祐・本(ほ、真実)賦し(ふし、他サ変連用形・詩をつくる)。
なかされて侍ける時母の=名(名声、皇太后の尊称を受けていたこと)飾れ(他四已然形・
    外観を取り繕う、已然形単独の確定条件)天(て、清和天皇)はべ(「奪う」の
    「う」の脱落、他四已然形)り(完了の助動詞連用形)ける(音読みで)時母(こ
    のはは、その当時の天皇の母、高子)の。
いひ津かはしける=言ひ付が(他四未然形・言い寄る、親しくなる)ば・しげる(自四終止
    形・男女が情を交わす)。


「善祐は、真実を詠う。(皇太后という)名声をかざしたが、清和天皇を(毒殺して命を)奪った高子は(男に)言い寄れば、情を交わした。」


高子は、三人の男と不倫をしたと(728)に詠われている。作者は、母ではなく、本人善祐。


なく涙=汝(な、おまえ)(清和の)具(ぐ、配偶者)な(の)弥陀(みだ、阿弥陀仏の
    略)。
よはみなう見登=余(私)食み(はみ、他四連用形・あえぐ)汝(な、おまえ、高子)得
    (う、他下二終止形・自分のものにする)、余は未納(みなう、高子におさまって
    いない、性交はしていないの意)・見当(けんとう、目当て、次に続く)。
なりななん=(前から続いて)成り(自四連用形・実現する)な(完了の助動詞未然形)な
    む(他への希望を表す終助詞)。
おなしなきさに=恩(おん、いつくしみ)な(の)其(し、おのれ)な(の)帰山(きざ
    ん、僧が自分の寺に帰ること)に。
なかれよるへく=名(名声)離れ(かれ、自下二連用形・遠ざかる)寄る辺(よるべ、より
    どころ、山科の自らが発願の元慶寺)来(く、カ変終止形)。


「おまえ、(清和の)妻高子は、(清和にとって)阿弥陀仏。私は(性交に)収まってはいない。目当て(性交)が、実現してほしかった。恩を受けたおれが寺に帰ると、(高子は)名声の皇太后は廃され、よりどころの元慶寺に行った(隠棲した)。」


8歳も年上の高子は、清和にとって、拝むような阿弥陀仏に思われた。高子が言い寄り、善祐は、これぞとばかりに、寄りかかったとも取れる。時の権力者と関わりができれば、僧と



しても昇進できるから。損得勘定で善祐は、高子に接しているとも。しかし、善祐は、不倫を否定しているとも取れる。高子の不倫の相手に彼が含まれていない(728)ので、こちらの方を取りたい。高子は、善祐との不倫を理由(嘘なのだが)にして、陽成の影響を除きたい宇多によって、追放されたということだ。当時は、天皇や皇后の地位は、絶対的なものではなく、まだまだ、すけいる間があったということのようだ。


また、後撰和歌集巻第19離別羇旅(1319)に伊勢の歌がある。
善祐法師の伊豆の国へ流され侍けるに
  別ては 何時逢ひ見むと 思らん 限ある世の 命ともなし


「別れてしまったからには、いつ出会おうというのだろうか。限りのある仲に、命の綱なんてものはない。」
離れてしまえば、その関係を支えるものはないと言っている。


別ては=別(わけ、情事)で判(はん、非難)。
何時逢ひ見むと=汝(い、おまえ)つ(の)相(あひ、相方)見むと。
思らん=(音読みで)知らん。
限ある世の=(音読みで)験(きつい顔の様子)ある余(私、善祐)の。
命ともなし=(音読みで)冥途(めいど、あの世)も成し(なし、生んだ結果)。


「(高子との)情事は非難された。おまえ(高子)の(情事をした)相手をみればわかるだろう。きつい顔をした私(善祐)があの世に行くのも、(当たり前で善祐が生んだ)結果よ。」


善祐は、いかつい顔をしていたようで、してもいない情事を非難され、あの世にいくのも自業自得と、作者は非難している。当時の貴族は人を外見で評価しているから、いったん事在れば、存在価値まで否定される危険性を持っていた。


業平、清和死後、陽成が皇統をつなぐことはなかった。高子はアルコール依存症で、放蕩な生活をしており、陽成の皇統を支えようとする対策はなにも取らなかったようだ。ただ、業平に利用されただけで、政治的には何の影響力を持ち得なかったので、宇多によって、その時代は無に帰された。

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