貫之の心・私の元永本古今和歌集

一味違った古今集の解読を試みたものです。
抒情詩として読まれてきましたが、「掛詞」をキーワードに解読してみると、政治的敗者の叙事詩が現れてきました。その一部、かな序だけでも鑑賞していただけたらと思います。

(64)天武は、孝徳の子

前の記事で、天武の父とされる舒明は、異父ということが詠われていると解説したが、では天武の実父は、誰か。
(692)の参考にした万葉集(1011)を解読して、わかったことを記しておきたい。


(1011)我屋戸之  梅咲有跡     告遣者    来云似有       散去十方吉
   我が宿の 梅咲きたりと 告げやらば 来といふに似たり 散りぬともよし


「私の家の梅が咲きましたと伝えてやれば、おいでと誘っているのと同じ。(だから、来なければ)散ってしまっても仕方がない。」


梅の開花を知らせたのだから、来なくて花が散ってしまうのもしかたない、と見に来ないことを言い訳にしている。
よし=縦し(副詞・たとえ、ままよ)。


四句は、字余りで、正しくは、(683)と同様に、「来てふに似たり」であろう。意味上から、三、四句は、「告げ遣るは 来てふに似たり」とみる。雑歌(政治歌)として意味を探ってみた。


我が宿の=王家(わか)宿(ご主人様)の。
梅咲きたりと=(音読みで)輩(はい、仲間、兄孝徳)(音読みで)小器(せうき、小さい
     器量)たり(断定の助動詞終止形)と。
     孝徳は、596年生まれ、皇極は、仮名序p.19によれば、603年生まれ。
     孝徳は、皇極斉明の兄ということになる。
告げ遣るは=(音読みで)高家(かうけ、権勢のある家、中臣鎌子)破る(やる、他四連体
     形・裂く)は(詠嘆の終助詞)。「裂く」は、「弓で射殺する」に使われる。
来てふに似たり=子(こ、大海人皇子)天父二人(てふににん、舒明、孝徳)たり(断定の
     助動詞終止形)。
     皇極と舒明の子(大海人皇子)であるが、実際は不倫の子で、二人の父とい
     っている。つまり、大海皇子は、孝徳との子。
散りぬともよし=(音読みで)然り(さり、そうである、そのようだ)寝(ぬ、自下二終止
     形)とも・四子(よし)。


「天皇家のご主人様で(皇極斉明の)兄孝徳は、(天皇の)器が小さいと、(内臣)鎌子は(孝徳を)射殺した。(皇極の)子(大海人皇子)には天皇の父がふたり(舒明、孝徳)あり、そのようであっても(皇極斉明には)四人の子(しかいなかった)が、しかたない。」


653年、皇太子中大兄皇子は、孝徳天皇に倭京(奈良)に移ることを請うが、孝徳は、これを許さず(奈良に入ることは、即位することであった)、鎌子が孝徳を射殺する原因になったとみる。翌年、鎌子は、皇極から(ほうびとして)紫冠を受け、封を増している。


皇極斉明の生んだ子は、三人(中大兄皇子、間人、大海人皇子)と高向王との間の漢皇子の四人。中大兄皇子は、諱から言えば、(中臣)鎌子の子だ。乙巳の変は、鎌子父子によるクーデターとみる。しかし、親が生きている間は、また、同じ不倫の子でも天皇の子である大海皇子の動向がはっきりしない間は即位できない。一度皇極天皇として即位した母親をさしおいて、その不倫の子中大兄皇子は、不可能なのだ。そして、大海人皇子は、孝徳の子ということになる(斉明と孝徳は、異母兄弟ということになる)。父が孝徳となれば、新羅系となるし、中臣の中大兄皇子は、百済系。争いになることは当然だ。鎌子が孝徳を射殺するのも整合する。


定説とは、かけ離れた史実が浮かび上がってきたが、多くの疑問にも答えてくれる歌だ。

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