凡河内躬恒は、宇多の子(305)だが、冷たくも宇多は認知しなかった。 しかし、(1067)の詞書には、その宇多が内々に認知したことが、読み取れる。 (1067)法皇西河におはしましけるに 猿山かゐにさけふといふ題を 「法皇が西河にいらっしゃる時、猿が山峡に叫ぶという題を(与え、読ませなさった)。 ... 続きをみる
貫之の心・私の元永本古今和歌集の新着ブログ記事
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源氏物語の相関図を見ていて、ふと、光源氏が良房に思えてきた。あれほどの好色家の光源氏なのに、正式な子が夕霧しかいないことが不審だった。光源氏は良房ではないか。 良房には、明子しか子はいない。そして、父冬嗣(桐壺院)の妻大庭王の娘(藤壺中宮)に手を出して、良世(冷泉帝)が生まれているのだ(52)。良... 続きをみる
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西行は、1118~1190年、定家の親の世代だ。北家魚名を祖とする武人の家。平清盛と同時代の武士だったが、1140年(22歳)出家した。俊成とともに、新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人として生きたとある。何で生活していたのかわからないが、気品ある寂寥感に魅力がある。どんな生活をしていたのか、... 続きをみる
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このよをは わかよとそおもふ もちつきの かけたることも なしとおもへは この歌は、道長の歌とされるが、実際は右大将実資が自分の日記(小右記)に書き残した歌で、1018年、11歳の後一条天皇に道長の三女威子(18歳)が中宮になり、一家三后を果たした祝いの宴で詠われた。道長自身は、日記にも残していな... 続きをみる
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古今集の和歌を解読する中で、初めて出くわす単語だった。「枯野」。「からの」と読み記紀に「枯野・からの」の表記がある。 ①日本書紀応神天皇五年冬十月 伊豆国に命じて造らせた。長さ十丈の船ができた。 試しに海に浮かべると軽く浮かんで速く行くことは、走るようであった。 その船を名付けて枯野といった。 五... 続きをみる
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古今集からずいぶん下った家康の歌を見てみる。 朝日新聞の文化欄にピーター・j・マクミランさんが紹介している。 富士の山 みねの雪こそ 時しらね 落つる木の葉の 秋は見えけり ① ①富士山の季節に合わない峰の雪だが、落葉に秋はあらわれています この歌は、伊勢物語(9 から衣)で、詞書が添えられてお... 続きをみる
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最近、「マフィンで食中毒」とテレビであったが、今度は学校給食で小麦に「カビ毒」のニュ―スがあった。マフィンで食中毒は、ちょっと考えられないですね。マフィンで賞味期限が二日とか、ありえない!と思ったのは私だけであろうか。おいしく食べる保障は、二日というのはわかるが、それ以後食べて体に障るなどとはちょ... 続きをみる
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岩波文庫「魏志倭人伝」を初めから読んで、最後に「隋書」に取り掛かり、ふと、奇妙なことに気がついた。「魏志倭人伝」で意味が取れない「以北」とされる「北」と「隋書」の「多利思比孤」の「比」が同じ形に見える。これは、読者一人ひとりが確認してほしいが、同じ漢字を使っている。そのように見える。 「魏志倭人伝... 続きをみる
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古事記の最初の部分のはじめから、ちょっと、思う所を記しておきたい。イザナギが出て来るのは前回(68)で解説した部分が最初ではなく、その前に既に記述されているから、そんなこと言っても前にちゃんと「妹」と書かれていると思った読者がいると思う。 その矛盾を、違う解読をすることで解消してみたい。 古事記は... 続きをみる
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883年乳母の子源益が、陽成によって撲殺されたとされる事件。 当時、陽成は、13,4歳で益は、親しい遊び友達だ。元永本(938)詞書にその真相が語られている。仮名序での二重詠みの如くであるが、すさまじい語句の変換に迫られた。小町の和歌だが、詞書は、小町が書いたわけではない。意図して、闇の歴史を語っ... 続きをみる
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(867)むらさきの 一本ゆゑに むさしのの くさはみなから あはれとそみる 「紫草が一本あると言うだけで、武蔵野の草は、全部が上品に見えることよ。」 説明は省くが、もう一つの意味は、 「一品である故に、光孝天皇の長男是忠親王は、いたわしいことよ。彼の母班子女王は(宇多天皇の)悪口に忙しい。宇多は... 続きをみる
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千利休の切腹に関して、一次資料を提示、解説してくれた本を紹介したい。 中村修也著「千利休 切腹と晩年の真実」朝日新書 2019年 私は、利休の切腹はありえないと思っていたので、同論の本をみつけてうれしかったので、書いてみます。主な理由を三つ挙げます。 ①利休は商人。商人に(特別視したとしても)武士... 続きをみる
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現在の多くの歴史論説は、一次資料を既存の読みで解釈して成立している。一次資料に立ち戻って点検をしてみることが必要であろう。そして、そのようにして古代史をよみがえらせようとした人がいた。 「まぼろしの邪馬台国」の著者、宮崎康平氏。アカデミアの人ではなく、経済人(島原鉄道常務)で、過度の仕事のせいで... 続きをみる
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高子は宇多期896年、東光寺座主善祐と密通したという疑いをかけられ、皇太后を外される。善祐は、伊豆流罪になった。宇多による高子の粛清だ。 拾遺和歌集巻第十五恋五(925) 善祐法師なかされて侍ける時母のいひ津かはしける なく涙 よはみなう見登 なりなゝん おなしなきさに なかれよるへく つまり... 続きをみる
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古今集(909年)に続く、後撰和歌集(935年)、拾遺和歌集(984年)あたりまで、古今調は見られる。古今集の時代に生きた歌人の歌が盛られている。つまり、古今集に語られたように、正史にはない歴史が語られているとみると、この分野の再解読すべき歌の地平線が洋々として広がっていることになる。 紫式部は1... 続きをみる
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万葉集(9)は、定訓がない難読の歌とされているが、その前の歌(熟田津に…)は、斉明天皇が中大兄皇子に即位を期待して、彼女の葬儀を託す歌となっているから、それに関連しているとみて、試訓を探ってみた。 次のように、一、二句は五七と定型となっているから、万葉仮名だろう。万葉仮名は、斉明期あたりに生まれて... 続きをみる
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前の記事で、天武の父とされる舒明は、異父ということが詠われていると解説したが、では天武の実父は、誰か。 (692)の参考にした万葉集(1011)を解読して、わかったことを記しておきたい。 (1011)我屋戸之 梅咲有跡 告遣者 来云似有 散去十方吉 我が宿の 梅咲... 続きをみる
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古今集の歌の中には、万葉集の歌を本歌とするものがある。万葉集の歌の読み方を決定できる貴重なケースだ。読みだけでなく、その意味の理解の手助けにもなる。 (683)は、万葉集の歌(2798)の本歌取りで、この本歌を理解することで解読ができた。 (2798)伊勢乃白泉郎之 朝魚夕菜尓 潜云 鰒貝之 ... 続きをみる
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元永本では、(649)の次に、(1108)が挿入されている。この歌は、万葉集巻11(2710)にある。内容から、説明は省くが、斉明天皇の作。「武力で重祚した」と詠んでいる。この歌に続いて、采女のかへしとして、(1109)の歌が挙げられ、「鸕野讃良の弟、健皇子は、鎌足の子で、大海人皇子によって殺され... 続きをみる
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掛詞の特性は、複数の文節を可能にする漢文の特性に由来する。 例えば、「伝不習乎」(論語)。二通りの解釈ができる。訓下すと、 ①習はざるを伝ふるか。→(自分が)習ってないことを伝えたか? ②伝えて習はざるか。→(先生から)伝えられたので、習わないのか? 構文の原則を守りながら、幾通りの文に理解が可能... 続きをみる
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(23)俊成が激賞した「むすふての…」を訂正する訳ではないが… なんとも、何の参考書もなく、勝手な「こじ付け」解説を、再ゝ考してまた別の解読を。 和歌の名手の仕掛けた掛詞は、なんとも私の能力を超えて、底知れない。藤原俊成が激賞したこの言語操作、勿論彼自身も、闇の歴史に光を当てたかったのだ。 (40... 続きをみる
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春 あめつちほしそら 夏 やまかはみねたに 秋 くもきりむろこけ 冬 ひといぬうへすゑ 思 ゆわさるおふせよ 恋 えのえをなれゐて 藤原有忠という人が「あめつち」の48文字をそれぞれ和歌のはじめにおいて、源順(911~983年没)に送ったところ、順が、こんどは和歌のはじめと終わりに同じ文字をおいて... 続きをみる
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このブログ(12)で、万葉仮名が音だけのはずが、掛詞で、その意味をも表すことを説明した。 漢字からその意味をたどることは、容易であった。しかし、その反対からさかのぼって漢字にたどり着くことは、至難の業。(or 勝手な解釈?) その一例を挙げたい。 かな序p.49 (二玄社 元永本古今和歌集) …い... 続きをみる
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光仁は、百済系の血筋を式家百川らの画策を得て、皇統を新羅系から奪還することができた。しかし、まだ、聖武の血筋を引く者がおり、桓武がその最後の血族を粛清して、一応百済系王朝を完成することができた。最後の犠牲者は、早良親王で、桓武の弟とされるが、(1118)に、井上内親王の子(長男)と詠われている。本... 続きをみる
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芥川龍之介の短編に「鼻」という話がある。今昔物語(平安後期)や宇治拾遺物語(鎌倉時代)を出典とする鼻の長い僧の滑稽な物語で、この鼻は、どうして長いのか、現代での診断の解説を読んだことはない。ただ、単に面白い「長い鼻のおはなし」として、設定されたのだろうか。 ショッキングなことであるが、かな序を解読... 続きをみる
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前回「芭蕉ルネサンス」での妄想の続きをしてみた。 旅に病で 夢は枯野を かけ巡る 1694年「笈日記」 この句は、辞世の句ともいわれ、芭蕉が死の四日前に詠んだもの。 私は、一句「病で」に引っかかる。「やんで」と読まれるが何故、「病み(自四連用形)」としなかったのだろうか。その方が、定型に収まる... 続きをみる
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芭蕉は、元禄時代、伊賀の人で、「奥の細道」など、俳句を交えた紀行文を書き、それまでとは全く違う俳諧の世界を切り開いたと言われている。 「奥の細道」は、随身を伴って、江戸深川から、5か月の旅日記。 先ず、不思議に思うのは、その費用はどこから? 彼は、何の生産性もない俳句を作るための旅に費やせるお金が... 続きをみる
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高崎市の上野三碑が、近年、世界記憶遺産に指定された。この石碑は、7C後半から8Cにつくられたことが、文面からわかる非常に古い貴重な遺物である。 その内、山上碑は、非常に短い漢文とされているので、気づいたことを書いてみたい。 熊倉浩康著「上野三碑を読む」という、私のような初心者にもわかるテキストを読... 続きをみる
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かな序p.18に、皇極天皇が入鹿に犯されて(?)生んだ子が、真人であるということは明白であると読める一節がある(このブログの「かな序」を書いた時は、読めていなかった)。皇極41歳(仮名序p.19、皇極は、亥年生まれとあるから、603年癸亥、推古11年生まれ)入鹿33歳の子ということになる。日本書紀... 続きをみる
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かな序に書いたように、女文字で書かれた歌には、必ず掛詞があり、政治歌が詠まれているというのが、和歌の常識となる。だから、一字たりとも、いじると意味が取れなくなる。この和歌の常識が保たれるのは、定家の校訂本ができるまでということになる。 定家が生まれるころ、没した小倉百人一首にもある崇徳院の歌を見て... 続きをみる
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允恭天皇8年春2月に、衣通郎姫(そとおしのいらつめ)が允恭天皇を忍んで詠んだと、日本書紀にある歌。 和餓勢故餓 勾倍枳豫臂奈利 佐瑳餓泥能 區茂能於虛奈比 虛豫比辭流辭毛 わかせこか くへきよひなり ささかにの くものおこなひ こよひしるしも (我が背子が来べき宵なり、ささがにの蜘蛛の行ひ 今宵著... 続きをみる
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「土佐日記」は、「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」ではじまる。 小松英雄氏により、「女文字で」と解説された時、私は、こうした古典が完全には解読理解されていないことを知った。しかし、解説はここまでで、「男も、すなる日記」の「も」が、理解不能であった。日記は、当時、男がすることが当... 続きをみる
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枕詞「あしひきの」は、山、峰に係る。最も多く使われている枕詞であり、この「あし」は、足。名前にも多く現れる。例えば、斉明天皇の当時の諡号は、天豊財重日足姫天皇である。 「足」は、コリアンで「タリ」と発音され、二本脚のことを指している。橋という意味もあり、二股に別れた人の足のような形である。藤原鎌足... 続きをみる
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(41)で、百済と新羅との宿命的な争いをみたが、列島への進出と共に起こったことのようだ。もうこの東には、海しかない。しかし、覇権意識の強い彼らは、戦いをやめない。 口承で伝えられていたあの有名な歌は、5C頃王仁が、大鷦鷯尊が即位を3年もしないので不審に思い、詠った歌と仮名序には説明しているが、これ... 続きをみる
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1100首を掛詞により、解読してみた。これは、「掛詞」で古今集は、作られているという私の仮説の証明でもある。それが、できたと思ったが、最初に解説した仮名序の地の文を、掛詞で解読できていなかったことに気づいた。 余りに有名な書き出しで、その裏に、掛詞があるとは思いもしなかったからだ。そして、始めた。... 続きをみる
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古今集(1054)は、糸と名ありける男によそへていひける とはじまる。 糸=維斗(ゐと)、北斗七星のことで、天子の暗喩。 そう理解して、はじめて、この歌で、(陽成の父としての立場が「祚・天皇の位」に当たるのだが)業平は、即位の野望は持っていないと詠っているとわかる。 しかし、糸は「いと」であり、「... 続きをみる
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承和9年(842年)に起きた承和の変は、嵯峨天皇の下で続いた輩行が直系皇位継承に代えられた一大転換期であり、北家良房がその権力を確立した事件である。 続日本後紀承和9年8月13日の項を見てみると、廃太子された恒貞親王が、宮中から淳和院に送り届けられとことが記されている。 「承和9年8月甲戌(13日... 続きをみる
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古今集は、春の歌からはじまる。万葉集は、「雑歌」からはじまる。 これを「ざっか」と読んではいけない。「くさぐさのうた」だ。古今集には、第17、18に雑部がある。 くさぐさ=日(くさ=天皇)・具者。 つまり、天皇とその取り巻きの人々が詠んだ歌ということだ。 今でも、苗字が「日下」という人がいる。これ... 続きをみる
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(17)早良親王は、井上内親王の子? のブログで北畠親房「神皇正統記」に、式家百川が、井上内親王を招き込んで、その息子早良親王を出家させたとあると、私は書いた。 百川がどう説得したのか? 躬恒の(956)の歌にその答えがある。 (956)山法師のもとにつかはしける (凡)河内躬恒 よをすてて ... 続きをみる
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人丸は、かな序にある通り歌聖として、あがめられたが、六位と官位は低くその生涯は、多くの憶測に満ちている。伊達本では、定家は、彼を「正三位」としている。 (907)には、「此二歌は 或人云 柿下人丸かとそ云伝たる」の添え書きがある。(906)の歌と共に、作者は人丸というのだ。その内容から、彼の官位が... 続きをみる
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(34)で、拾遺和歌集が出された時は、歌の本意が理解されていたことをみたが、11世紀になると、書写からもその意が理解されていないことを説明したい。 写真は、升色紙の有名な古今集(613、作者は、清原深養父)の、伝藤原行成筆といわれるものを、私が臨書したもの。 いまはゝや こひしな ... 続きをみる
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この歌集の冒頭に、壬生忠峯の歌がある。彼の歌は、評価高く、藤原公任は、作例の最高位にある歌としている。 <忠岑は、宇多の子で(365)(1003)、公然の秘密であったようだ。勅撰集の冒頭は、天皇家に属する人の歌であるのだ。宇多の初めての子は、885年(宇多18歳)に生まれているから、この頃に、生ま... 続きをみる
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秋萩帖のはじめ、二首の同じようにある脱字について解説したい。 ともに、一行目の一番下の文字が脱字とされる。私が臨書したのは、 下線部で、ともに文頭の掛字とみた。 ①安幾破起乃之多者以 あきはきのしたはい ▢都久以末餘理處悲 「都」の左側部分が「路」にみえる。 つくいま... 続きをみる
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冒頭の仮名序の解説をした時、人麻呂の(409)のこの歌を読めていませんでした。万葉集の歌は、その訓読から、検討しなくてはいけないのだが、仮名序には、平かなで表記してあるので、この手間が省ける。この表記の通りに詠んでいたということ。万葉集の全歌について、平かな表記をしてくれていたらどんなにかよかった... 続きをみる
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古今集は、掛詞に満ち満ちている。それは、万葉集から受け継いだものだ。そこには、おいそれと、理解できない掛詞の連続。 万葉集巻第1(27)を解読します。 詞書には、「天皇 吉野の宮に幸す時の御製歌」とあるから、679年天武天皇が作った歌。 淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 ... 続きをみる
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(12)万葉仮名は、意味を引きずる でも言及したことであるが、漢字を万葉仮名として音として用いても、読者は、意味を忘れることができない。漢字は、意味を決定づける。 再び、万葉集の歌を取り上げて、その漢字の就縛から抜け出した、当時のインテリの歌を解読したい。 万葉集巻第1(8) 斉明天皇が額田王に詠... 続きをみる
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(616)おきもせす ねもせてよるを あかしては はるのものとて なかめくらしつ おき=起き、息。 ね=寝、音。 よる=夜、寄る。 あかしては=明かしては。明し手(晴らした手段)は。吾が仕手(やり手)は。 春のもの=情事のこと、→菱藻(砒霜)。(音読みで)順(順子)の(音読みで)仏(ほと ... 続きをみる
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古今集の中に、業平の歌が30首も採られているが、その多くに長い詞書が添えられている。しかも、他の歌と比べられない程長い。同時代に、伊勢物語が知られており、業平は、私家集を残していなかったので、この優れた歌人の歌を引く時、伊勢物語からそのまま取ってきたように思える。 (404)にみるように、貫之は、... 続きをみる
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古来、いろは歌は、いろいろな場面で使われてきた。初歩的、基本的な文字のラインナップで1,2,3のような記号のような使い方もあるし、「いろはも知らないで…!」などのいうようにも使う。また、その意味は、諸行無常の世界観を表していると思っていた。 いろはにほへと ちりぬるをわか よたれそつねな らむう... 続きをみる
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陽成天皇は、業平の子である。さすがに、歌もうまい! 業平の子の証明になるほどうまいと、思ってしまった歌を紹介します。 (1120)おちたきつ かはせになひく うたかたの おもはさらめや こひしきことを 「激しく流れる川瀬に揺れ動く泡沫は、恋慕っていることに思いをはせないのでしょうか。」 おちたきつ... 続きをみる
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清和天皇の長男とされる貞明親王は、高子と業平との不倫の子であると暴露している歌がある。貫之が、「かな序」で絶賛した文屋康秀の作、(445)。良房が、源信を毒殺したとも暴露している(249)。 (445)二条后のまたみやすところと申ける時 かめにけつり花をさせるを よませたまひけれは ... 続きをみる
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巻第10 物名(436)には4字の脱字があるとされ、定家は、「あたなる」を補って入れている。 (436)さうひ つらゆき われはけさ うひにそみつる 花の色を ものと 云へかりけり 「私は今朝初めて見たが、世間で珍重しているこの花の色をあだっぽいものであるという... 続きをみる
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藤原俊成(1114~1204没)が、絶賛したという貫之の歌がある。「…大方すべて詞ごとのつづき、姿、心、限りなく侍る成るべし 歌の本体は ただこの歌なるべし」 果たして、俊成は、この歌をどう解釈していたのだろうか。元永本が書写されたのが、1120年。このころは、歌の本意は、理解されている。しかし、... 続きをみる
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一つの文を三通りに理解していた貫之らの頭の中は、どうなっていたのだろう。解読を進めてきたが、だんだんと、そのすごさに恐ろしくもなってきた。三通りに読めても、私はその一つを解説の中から捨てていた。まあ、そうも取れるな、位の軽い意味だから、そこまで取り上げることはない…と。しかし、そうした歌が次々と出... 続きをみる
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現在流布している古今和歌集は、定家の写本した伊達本で、原本のそのままではない。定家は、漢字に支配された万葉集の影響の強い古今集から、積極的に和文としてこなれた歌集へと校訂して、和語の基礎を整えることに力を注いだといえる。 しかし、その反面、貫之らの歌に込めた意図は、その多くは消し去られてしまった。... 続きをみる
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(343)わか君は 千よにましませ さゝれいしの いはほとなりて こけのむす左右 讀人しらす 日本の国歌の元でもあるこの歌は、古今和歌集巻第七祈(伊達本では、賀歌)の冒頭にある。 私はこの意味をいつも、不審に思っていた。礫岩ではある... 続きをみる
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あの有名な額田王と大海人皇子の蒲生野の相聞歌を解読してみたい。これまで、元永本古今和歌集で鍛えられた「掛詞」の解読眼が試される… 万葉集巻第一(20)には、「天智天皇が蒲生野で狩りをなさった時、作った歌、額田王」とあり、次に大海人皇子の歌とあるように、相聞歌。 (20)天皇(天智)蒲生野に遊猟した... 続きをみる
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清和天皇の密殺が、基経によって行われたことは、貫之の(1114)の歌に詠まれている。その毒殺が、今は知られている麦角でなされていたと読めて、私自身、疑心暗鬼‼ 驚愕‼ しかし、あくまで、その言の葉を信じて、解読してみた。その歌とは、(307)。 (307)題しらす ほにしいてぬ やまたをもると か... 続きをみる
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元永本古今和歌集(254)の代わりに、(1118)が掲載されている。(253)は、家持の死を、(255)は、藤原氏北家の隆盛の自負を詠っている歌の間に挿入されたこの歌から、早良親王が、井上内親王の長男ではないかと思われたので、説明したい。 (1118)わかゝとの わさたのいねも からなくに また... 続きをみる
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本文p.45に、二つ人丸の歌が掲げられている。共に、表面上は優れた自然詠、その真意は政治歌である。 そこで、有名な彼のあの歌に、どのような政治歌が見いだせるのか、探ってみた。 その歌とは、万葉集巻1 (48) 「軽皇子が安騎野に宿られた時に作った歌 柿本人麻呂」という詞書があって幾つかの歌が列挙し... 続きをみる
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本文p.27の終わりに、貫之は、比喩歌にして、よい歌として、万葉集(2991)を挙げている。原文は、 垂乳根之 母我 養蚕之 眉隠 馬声蜂音石花蜘蛛*荒鹿 異母二不相而 たらちねの おやのかふこの まゆこもり い ふ せ くもあるか いもにあはすて *「蜘蛛」の「蛛」は、原書では、虫偏... 続きをみる
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本文p.55、六歌人評の中で、三人目、文屋康秀を貫之は、挙げているが、彼の歌、 「ふくからに のへのくさきの しほるれは むへ山かせを あらしといふらん」の評価点は、ただ、その漢字を分解したおもしろさにあるのだろうか。その政治的背景を掛字で 探ってみたので、追加説明としたい。 この歌は、第五秋歌下... 続きをみる
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これまで、元永本、秋萩帖の脱字とされる書き方をみてきたが、二玄社「巻子本古今集」にその例を見つけたので、紹介したい。 伝承筆者として、源俊頼(1055~1129)と伝わっているが、今日、元... 続きをみる
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万葉仮名は、漢字一字に一音を対応させて、表音文字として用いた知恵である。しかし、表意文字の漢字の本質は、音としての表現から、意味を完全に取り去ることを許さない。表音文字として使いながら、やはり、漢字の持つ意味は、付きまとい、また、それを使いこなす知恵を当時の人々は、持っていたのである。 かな序に、... 続きをみる
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再考した際に、また新たな発見をしたので、本文p.51の六歌仙評の遍照の部分を書き直した。 古今和歌局第三夏歌(165) はちすはの にこりにしまぬ こゝろもて なとかはつゆを たまとあさむく はちすはの=蓮の葉の、恥す・は(巴、篆書体の形からともえの形で、性交を示す)・の。 にこり=尼(仏教に帰依... 続きをみる
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(7)で、脱字を説明したが、p14最後の行に、「…を かたに(に)うつりて…」と「に」の脱字があるとされることを説明したい。 私のこの部分の「…かたにうつりて…」を臨書したものをみていただきたい。 「う」の1から2画目のはじめにかけて、「二... 続きをみる
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秋萩帖には、小野道風筆とされる、48首の和歌が裏紙に書かれており、その内、17首に脱字、衍字がある。三割に「書き間違い」のある、正に「書写した者」のおっちょこちょいぶりが、よく表れた「珍書」?とされている(のだろうか)。古今の書家などにも、草かなのお手本とされ、国宝である。 秋萩帖のこの複数文字の... 続きをみる
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かな序の最後のページから2ページ目の終わり(69ページ)に、「あるをや」の4字の脱字があるとされる。 …この歌のもし(あるをや)あをやきの いと の たえす… 「…歌のこの文字は、(あるではないか)青柳の枝の糸のように絶えることなく…」とつづいて、「…後世に残り…」と接続し... 続きをみる
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これまで、アカデミアでは、元永本は脱字、衍字が多く書写した能書の力量を疑っている。平たく言えば、いい加減な教養のない者が、写し書いたもので、信用ならないので、すべて信用できないしろものである、ということ。 そうではないことを、原本の元永本の書きぶりを観察することで説明したい。 かな序には、脱字は... 続きをみる
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前回、表題に挙げたことを言及したので、そのことを説明しよう。 その歌は、貫之が古今集を奉った時に、添えた長歌の中に詠われている。四季に始まる部立てに従った歌にしてあるが、実は、陽成天皇と基経との確執から、基経による光孝天皇の密殺(死)、醍醐天皇の古今集勅命までの歴史を伝えている。ここは、「賀」と「... 続きをみる
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六歌仙評の中で、 (60)あたりの大伴黒主の二つ目の歌「かゝみ山 いさたちよりて…」(899)の説明の中で、「基経を密殺した宇多天皇…」としていることの説明をしよう。 この歴史的事実が暴露されているのが、 (272)おなし御時 きくあはせに すはまに ふきあけのはまを つくりて きくのはな を... 続きをみる
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二歌聖論を説明したので、その中で本文参照という形だけで、そこでは説明されていない万葉集の公表された時期を、809年11月(大同4年10月の意)とした根拠を説明しよう。 本文(997) 貞観御時 万葉集はいつ許(ばかり)つくれるそと 問給けれは 文室ありすゑ 十月しくれふりおける ならの葉の ... 続きをみる
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(54)六人の反藤原氏主流派のひとり、文屋康秀の本文の部分を改定しました。 「…そのさまみに およはす いはゝ あき人 のよきゝぬ きたらんかことし…」 「そのさまみにおよはす」を「その姿は、身に達していない」つまり、教養のない商人がいい服を着ているようなもので、質のいい言葉表現が、内容ある価値... 続きをみる
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凡例 *「・・・」 藤原定家の加筆した伊達本の表記。 ・・・ 漢字ならひらかなへ、ひらかななら漢字へ、伊達本で変更表記されている、校訂された文字は、その横に(*・・・)と表記、その言葉がなく略されている場合は、 [・・・] とした。 ま... 続きをみる