貫之の心・私の元永本古今和歌集

一味違った古今集の解読を試みたものです。
抒情詩として読まれてきましたが、「掛詞」をキーワードに解読してみると、政治的敗者の叙事詩が現れてきました。その一部、かな序だけでも鑑賞していただけたらと思います。

(46)衣通郎姫の歌

允恭天皇8年春2月に、衣通郎姫(そとおしのいらつめ)が允恭天皇を忍んで詠んだと、日本書紀にある歌。


和餓勢故餓 勾倍枳豫臂奈利 佐瑳餓泥能 區茂能於虛奈比 虛豫比辭流辭毛
わかせこか くへきよひなり ささかにの くものおこなひ こよひしるしも
(我が背子が来べき宵なり、ささがにの蜘蛛の行ひ 今宵著しも)
「夫の君が訪れるはずである宵だ。(巣を営む)蜘蛛の行動で、今宵(来ると)はっきりしているよ。」


允恭天皇は、5世紀ころ。日本書紀によれば、病気により身体に障害があるので、いやいやながらに即位したということだが、後に新羅の名医により治ったとある。


わかせこか=王家背子(木梨軽皇子、軽太子)・か(次の語に続く)。
くへきよひなり=(前から続いて)掻く(他四終止形・かき切る)べき(連体終止法)・余(私)妃なり。
ささかにの=ささ(感動詞・「栄えよ」という意の呪術的なほめ言葉)堪忍(がまん)の。
くものおこなひ=苦悶の御御(妻、娘を親しんで呼ぶ語)な(上代格助詞・の)日(天子)。
こよひしるしも=来よ妃(允恭天皇の皇后忍坂大中姫、衣通郎姫の姉)知る・しも(終助詞…にも関わらず)。
「軽太子は、(首を)かき切るべきです。私は、(あなたの)妃です。栄えよ、『我慢苦悶の奥様』の天皇よ、来てくれ。皇后との関係があろうとも。」


允恭天皇は、皇后の妹も妃としていた。当時は、一夫多妻であるから、これはふつう。古事記に、軽太子と情を通じるタブーを犯したとあるから、衣通郎姫は、軽太子に犯されたことが、垣間見える。日本書紀の記述をとれば、父允恭の妃である衣通郎姫と、息子軽皇子が情を通じることはタブーであり、彼女は恨み、殺したいと憎しみを抱いたのも理解できる。父の女に息子が関係することは、タブーである。後の世にも、同じケースがある。
そうしたスキャンダルは、皆の知られる所であり、「祚(そ・天子)通し(渡り交わる)」姫と名付けられたとみる。天皇と皇太子の父子に通じたということだ。「うるわしい体の輝きは、衣を通して外に現れていた」と日本書紀にあるが、暗にタブーを写し取っている命名である。
そして、衣通郎姫は、自分のことを「我慢し、苦悶する妻」と表現している。軽太子の乱交に我慢できなく、皇后に悩み認めるにしても、允恭に通ってきてほしいと訴えている歌と解釈できる。予測の控えめな要望の歌として詠んでいるが、中身は命令形である。


この歌は、宇多によって、隠し子の躬恒と忠岑へ言い訳に、一部語句を変えられて、かな序に取られている。

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