貫之の心・私の元永本古今和歌集

一味違った古今集の解読を試みたものです。
抒情詩として読まれてきましたが、「掛詞」をキーワードに解読してみると、政治的敗者の叙事詩が現れてきました。その一部、かな序だけでも鑑賞していただけたらと思います。

(27)「いろは歌」の意味

古来、いろは歌は、いろいろな場面で使われてきた。初歩的、基本的な文字のラインナップで1,2,3のような記号のような使い方もあるし、「いろはも知らないで…!」などのいうようにも使う。また、その意味は、諸行無常の世界観を表していると思っていた。


いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす


こうして、7文字で区切ってみると、「とかなくてしす」という謎めいた隠し文があることを紹介してある本もみた。
7文字で区切るというのは、漢文の7言律詩の真似ではないか。文字数が足りない訳だから、下の折句を加えて、意味の上から補足したとみえる。


しかし、「いろは」が生母を意味することを知って、俄然、興味がわいてきた。
いろは=生母。
つね=基経の暗喩。
うゐのおくやま=有為(移ろいやすいこと、才能があること)の置く(自四連体形・位置
    を占める)山(清和)。
けふこえて=業(げふ、業平)子(陽成)得て。
あさきゆめみし=浅黄(六位の衣の色)ゆめ(副詞・決して)・見じ(打消推量の助動詞連
    体形)。
ゑひもせす=故(ゑ、理由)日(天皇)、飢(ゑ、自下二連用形「う」の脱落)干(ひ、自
    上一連用形)・も為ず。


「(陽成の)生母高子は、(896年)廃后されて失脚したが、今を我が世と権勢を奮っていたのは、誰であるか。それは基経であったろう。
(歌の)才ある清和天皇、業平は子(陽成)を得た。六位の卑官の私は、(陽成に)決して会うことはなかった故、飢えも官職がなくなることもなかったが、天皇にもならなかった。(清和も業平も)罪がないのに毒殺された。」


いろは歌がつくられたのは、896年過ぎであることになる。作者は、紀友則。友則は、光孝の長男(仮名序p28)(1091)で、母が没落氏族伴氏だったので、低い身分に留まり、皇位継承ができなかった。清和は、仮名序の作者紀時文(仮名序p69)が、歌の師と仰いだ歌の名人だった。仮名序に、大伴黒主は、清和のことだ(仮名序p60)と解説している。高子は、業平と不倫をして陽成を得ている。友則は、幼少の頃は母と時康(光孝)に遇っている(仮名序p60)が、陽成の時代のころ(青年期)は、関係が絶えていたのだろう。ある程度の収入はあったが、皇位継承は望むべくもなかった。


このいろは歌がつくられて約30年後には、いろは引きの辞書がつくられている。宇多の子斉世親王(真寂法親王)の編纂した「梵漢相対抄」がいろは引きというのだ(「日本語の奇跡」山口謠司著)。宇多が皇位継承を願っていた斉世だったが、時平に阻まれて出家している。彼も屈辱の歴史を後世に残したかったのだろう。

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