貫之の心・私の元永本古今和歌集

一味違った古今集の解読を試みたものです。
抒情詩として読まれてきましたが、「掛詞」をキーワードに解読してみると、政治的敗者の叙事詩が現れてきました。その一部、かな序だけでも鑑賞していただけたらと思います。

(79)西行「願はくは」を掛詞で読むと

西行は、1118~1190年、定家の親の世代だ。北家魚名を祖とする武人の家。平清盛と同時代の武士だったが、1140年(22歳)出家した。俊成とともに、新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人として生きたとある。何で生活していたのかわからないが、気品ある寂寥感に魅力がある。どんな生活をしていたのか、さっぱりわからない歌人の歌の解読は、至難の業。知識ある人の後援を期待したいが。


ねかはくは 花の下にて 春死なん そのきさらきの もち月の頃


この表記が、原文らしい。漢字で表記すると、すでに解釈が入ったことになる。
ねかはくは=子(ね)が魄(はく、死者の霊魂)は。
花の下にて=(音読みで)禍(か、災い)の下(した、時)にて。
春死なん=(音読みで)殉死なむ(強調の係助詞)。
そのきさらきの=其(そ、おのれ)退き(のき、自四連用形・地位を離れる)沙羅樹(さら
     き=しゃらき、しゃらじゅ)、洒落気(生意気で出過ぎたようす)の。
もち月の頃=門(もん、一族。前から続いて、沙羅樹門で沙門・僧侶)血継ぎ(ちつぎ、血
     筋)の子ろ(接尾語)。


「子の霊魂よ。災いの時であり、殉死だった。私は、出家して僧侶。(もともとの武家の)血を継いだ子だった。」


西行には息子がいた。「災い」が何なのか、わからないが、当時、保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)などあり、不穏な時代だった。その中で、死んだというのだ。老境に達して詠んだ歌だから、亡くした息子への挽歌であろう。僧侶の父親は死ななかったが、子は武士の家筋、死んでしまったというのだ。


「出過ぎた、生意気な」と認識しているとも取れる出家は、何の理由だったのだろうか。秀衡や頼朝にも接点があり、芭蕉のように、隠密をやっていたのだろうか。

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