(72)陽成の撲殺事件の真相
883年乳母の子源益が、陽成によって撲殺されたとされる事件。
当時、陽成は、13,4歳で益は、親しい遊び友達だ。元永本(938)詞書にその真相が語られている。仮名序での二重詠みの如くであるが、すさまじい語句の変換に迫られた。小町の和歌だが、詞書は、小町が書いたわけではない。意図して、闇の歴史を語っている。
(938・詞書)
文屋康秀 小町を年来云侍けれと 不聞なりにけるを やうやくわるく なりにける時に
やすひて三河属になりて あかたみに はえいてたたし やと いひたりける 返事によめる
これが次のように、大変換されている。
分置く長官(かう)十(しう) 三定を同士来て云い侍りけれど 不問なりにけるを 陽益割る苦 奈利に消る時二 夜吸ひて酒足になりて あ片身に 映え出で正し 宿 射左消る 返し異に余滅る
逐語訳すると、
「分をわきまえている左大臣源融は、13歳の(陽成の)真実を仲間が来て言ったのだが、(融は)不問にしたことよ。陽成と益は、ばれる心配を地獄に消した時、二夜(酒を)すすり、千鳥足になった。ああ、片身を脱いで、さっそうと出て(泥酔を)正し、基経は、射て酒好き(益)を射殺した。後の続きにとりわけ、私は気が滅入る。
まだ子供の陽成と源益は、遊び半分に飲酒を二晩に渡ってして、基経に益が射殺されたというのが、真相だと説明している。