貫之の心・私の元永本古今和歌集

一味違った古今集の解読を試みたものです。
抒情詩として読まれてきましたが、「掛詞」をキーワードに解読してみると、政治的敗者の叙事詩が現れてきました。その一部、かな序だけでも鑑賞していただけたらと思います。

(76)和歌は基本的に政治歌を隠す

古今集からずいぶん下った家康の歌を見てみる。
朝日新聞の文化欄にピーター・j・マクミランさんが紹介している。


富士の山 みねの雪こそ 時しらね 落つる木の葉の 秋は見えけり ①
 ①富士山の季節に合わない峰の雪だが、落葉に秋はあらわれています


この歌は、伊勢物語(9 から衣)で、詞書が添えられており、旧暦五月の末に夏であるにも関わらず、雪をかぶる富士山を詠ったもので、これの季節を秋に変えたものだと、マクミランさんは解説している。


時しらぬ 山は富士の嶺 いつとてか 鹿子またらに 雪のふるらむ 伊勢物語(9 から衣)


家康の歌は、徳川美術館に所蔵されている短冊で、家康自筆とある。写真には、いつ詠われたのか、など説明がなくわからない。その写真から、実際の文字を拾ってみると、


「布しの山 みねのゆきこそ 時らね をつるこの葉の 秋はみえけり」 ②


表面上の意味は、「富士山の嶺の雪は白嶺(という)。落葉に秋が(来たことを)知ります。」これらは、皆当たり前のこと。当然のことを歌に詠んでいる。


②は①と表現文字が異なっており、すでにこの時点で、①の表現には解釈が加えられていることになる。家康の本意の意味を拾ってみよう。


布しの山=不審(ふしん、疑い)の山(やま、たくさん)。
みねのゆきこそ=峰の雪こそ。御子(みね,、長男信康)の逝き(ゆき、死ぬこと)来
     (こ、自カ変未然形)そ(禁止の終助詞)。
時らね=(音読みで)白嶺(しらね)。(「時」を「し」と二重読みにして)時(時の流
     れ)知らね。
をつるこの葉の=復つる(をつる、自上二連体形・もとに戻る)子の判(このはん、子を非
     難)の。「をつる」を「落つる・おつる」と誤認することを期待している。
秋はみえけり=あ(感動詞・ああ)際(きは、最後)見えけり。


「時らね」は、短冊の説明で、「し・知」が抜けていると、「時知らね」の訂正がある。当時の表記方法を理解しないので、「誤表記」と決めつけてしまっている。


「疑いに溢れている。子(家康の長男信康)を失うことなど無きように。時の流れを理解しないので、(以前の今川寄りに)もどる子への批判の、ああ、結末は見えてしまった。」


今川から織田側に乗り換えた家康は、今川の血筋の妻築山殿と子信康を乗り換えさせることはできず、粛清することになることを、悲しくも予感したことを詠ったとみた。こうせざるをえないことは、彼にとって、富士山の積もる雪を白嶺と呼ぶと同様に、当たり前のことなのだ。


家康は、伊勢物語を読んでいる。他の戦国武将も同じであろう、古今東西の書物を身につけている。私を含め、多くの現代人は、家康の頭にどのような知識が詰め込まれているのかを知らない。その上で、理解したつもりになっている。


私の理解も妄想でしかないかもしれない。歴史との整合性を探るなかで、家康の心が見えてくると思う。平仮名の多義性、可変性は、この時代、芭蕉までも続いている。

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