貫之の心・私の元永本古今和歌集

一味違った古今集の解読を試みたものです。
抒情詩として読まれてきましたが、「掛詞」をキーワードに解読してみると、政治的敗者の叙事詩が現れてきました。その一部、かな序だけでも鑑賞していただけたらと思います。

(52)平安時代に梅毒はあった

芥川龍之介の短編に「鼻」という話がある。今昔物語(平安後期)や宇治拾遺物語(鎌倉時代)を出典とする鼻の長い僧の滑稽な物語で、この鼻は、どうして長いのか、現代での診断の解説を読んだことはない。ただ、単に面白い「長い鼻のおはなし」として、設定されたのだろうか。


ショッキングなことであるが、かな序を解読して(当ブログでは解説していない、書いた当時解読できていなかったのです)「3人梅毒で没した人がいる」と語っている所(p.65)がある。当時から、梅毒は、STD(性感染症)であることが、(少なくともかな序を書いた紀時文には)わかっていたらしく、不名誉な病として、認知されていたようだ。売春は、女の最古の職業であるというが、昔から買春は、はばかられるべき行為であるが、やめられないと、男は認識していたということだろう。
その3人とは、源融、源能有、源至。そう書いてある。そして、(157)(104)には、平城、嵯峨も梅毒で没したことを忠岑、躬恒が、非難している。


それを解説したい。かな序p.65にある部分で、地の文まで、掛詞で書かれていた。
…それかなかにも 梅をかさすより はしめて ほとときすを きき もみちををり ゆきをみるにいたるまて… 


梅をかさすより=梅・犯さ(他四未然形・人を襲う)す(上代尊敬の助動詞連体形)より。
はしめてほとときすを=端女・てんほ(運にまかせること)と怒気(怒りの気持ちが表された顔付)為(自サ変終止形)・を(強調の間接助詞)。
ききもみちををり=効き(山帰来の根が梅毒の薬として用いられた)も微塵・ををり(自四連用形・たわみ曲がる)。
ゆきをみるにいたるまて=逝きを見るに・至(源至)左右(左右大臣、源融、源能有)。


「その中にも、梅毒にお罹りになったので、(相手をした)身分の低い女は運にまかせ、怒りの顔をしたことよ。(薬の)効き目もなく、体はたわみ曲がって亡くなったのは、源至、左右大臣の源融、源能有。」


平城、嵯峨の最期がどうだったのか、記録がない。共に、異色の好色男。
「融」は、能の演目にもなっており、河原院に現れる幽霊として描かれており、梅毒による容貌の崩れを表しているともとれる。能有の死は、宇多にとって、譲位を決意させる程、ショックであった。


また、(104)の躬恒の歌はどうか。
はなみれは こころさへにそ うつりける いろにはいてし 人もこそしれ


はなみれは=鼻見れば。
こころさへにそ=御子ろ(天皇の子、嵯峨)さ(副詞・そのように)紅瘡(梅毒のできもの)。
うつりける=移り(自四連用形・病気が伝染する)消る。
いろにはいてし=色二番(好色な愚か者。一番は、平城ということ)いで(相手を軽くたしなめる気持ちを表す感動詞これこれ)・死(次に続く)。
人もこそしれ=(前から続いて)死人(平城、824年梅毒で没)も子(嵯峨)謗れ(他四命令形・非難する)。


「鼻を見ると、嵯峨はそのように、梅毒に感染して、できものができ亡くなった。これこれ、亡くなった平城も子嵯峨を非難せよ。」


嵯峨天皇は、桓武の子とされるが、(1074)に平城に犯された藤原乙牟漏の辞世の歌とも取れる歌が詠まれており、平城の子だ。平城は、なんと、マザーファッカ-なのだ。それにより、生まれたのが嵯峨。ここでも整合する。良房(彼もマザーファッカー)が詠うように、「おもひ(母、妃)もなし」のとんでもない男なのだ。


梅毒は、菌そのものは弱いが、潜伏すればじわじわと、潰瘍が、神経を含め、至る所にできる不治の病。20世紀ペニシリンができるまで、恐れられていた。この「鼻」に出て来る長い鼻は、梅毒のために変形した潰瘍の跡ではないか。かな序の梅毒の部分を解読して、私は、この話を思い出し、確信したのだ、当時梅毒はあり得るということを。だから、短くしても皆に笑われたのだ、いかがわしい買春をしたと。何を笑われたか、本人が理解していない所が、本当は滑稽なのだ。


梅毒を語っているとわかるまで、ずいぶんと時間がかかった。それは、私の知識では、梅毒は、コロンブスがアメリカ大陸発見して、ヨーロッパに持ち帰ったと教えられていたからだ。それ以前にはなかった。これが、常識だと思っていた。これが、バイアスになって、理解が遅くなった。


このブログも、5年目に突入!

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