(5)宇多天皇、基経を密殺!
六歌仙評の中で、
(60)あたりの大伴黒主の二つ目の歌「かゝみ山 いさたちよりて…」(899)の説明の中で、「基経を密殺した宇多天皇…」としていることの説明をしよう。
この歴史的事実が暴露されているのが、
(272)おなし御時 きくあはせに すはまに ふきあけのはまを つくりて きくのはな
を うゑたりけるに そへたりける歌 菅原朝臣
あき風の ふきあけにたてる しらきくは 花かあらぬか なみの よするか
という歌である。
寛平の御時(宇多天皇期)に、箱庭のように、庭の一角に州浜台に植えた菊を道真が詠った歌である。
「秋風が砂丘の州浜に吹き、そこに立っている白菊は、花のようであって花であるのか、浜に寄せる波なのだろうか。」
花や鳥を波に見立てようとする歌のひとつで、一般的な技法である。この歌集の編纂時、道真は、903年すでに没しており、この時代、時平の政敵で、政治的敗者である。だからこそ貫之は、同情し、彼の歌を入れたのではないか。時平は、909年に没しているから、古今集は、道真の歌が入っているとすれば、その後に公表されたか、又は公表後に加えられたと考えられる。
あき風=吾君・枷(自由を妨げるもの)。
ふきあけ=不義(人倫に外れた行為、上位の者を殺す)・あけ(ある期間が終わる)。
花=栄。
なみのよする=なみ(騒ぎ)の与する。
「私の主人(宇多天皇)の足かせになっていた基経を(891年射)殺し(904)、彼の時代が終わり、宇多天皇(しらきく)は、栄あるのか、また、騒ぎが起こるのだろうか。」
基経は、阿衡事件(888年)で、宇多天皇との確執があったが、道真の仲介、宇多の妥協により、その溝が埋められた後、ほどなく病床につき、891年56才で没したとされている。その後、宇多は、思いのままに、寛平の治と呼ばれる政治を展開するのである。この阿衡事件の宇多の妥協は、彼にとっては、相当の屈辱であった。それに、また別に書きたいのだが、彼の父、光孝天皇は、基経に密殺されており、かたき討ちでもあったのだ。
そして、そうした事実を知っていた道真は、予見していたのだろうか、実質的には、基経の息子時平に左遷、殺されたようなものである。歌の中に、正史には書けない権力闘争のあとさきをみることができるのである。