貫之の心・私の元永本古今和歌集

一味違った古今集の解読を試みたものです。
抒情詩として読まれてきましたが、「掛詞」をキーワードに解読してみると、政治的敗者の叙事詩が現れてきました。その一部、かな序だけでも鑑賞していただけたらと思います。

(59)漢文からの影響

掛詞の特性は、複数の文節を可能にする漢文の特性に由来する。


例えば、「伝不習乎」(論語)。二通りの解釈ができる。訓下すと、
①習はざるを伝ふるか。→(自分が)習ってないことを伝えたか?
②伝えて習はざるか。→(先生から)伝えられたので、習わないのか?


構文の原則を守りながら、幾通りの文に理解が可能である。古代中国の詩人、思想家は、時の権力に関わった政治家であり、表だって主張できなかったことをこうした複数構造文に託していたのではないか。(そうした解釈は、ないそうだが。)
それと同じように、中国文化圏の端で、仮名文字でも試みたとしても不思議ではない。多訓多義の文字を、書き手と読みき手が別々に理解することが可能であり、全く異なる内容を伝えることができる。


これは、表意文字文化圏にはない文化で、説明が難しい。なにしろ、多訓多義の言葉なんてコミュニケーションツールとして、一義に定まらない不都合なものでしかない。口頭で伝える時、その時の会話の状況に応じて意味は、自ずと決まってくる。しかし、書かれた文字を読む時、多訓多義の文字であれば、どのような状況も設定できる。その結果、多義の世界は、紙の上に自由に広がる。


こうした性格を持つ漢字を、表意文字と表音文字の二つの使い方をごちゃまぜにして、隠し絵のようにして、歴史の事実を残そうとしたのが、万葉集であり、古今集であると、私は理解し始めている。

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